石戸奈々子『賢い子はスマホで何をしているのか』
GIGAスクール構想というものがある。
これは「全国の児童・生徒1人に1台のコンピュータと高速ネットワークを整備する」という取り組みのことである。
新型コロナウイルス感染症の拡大を受けて、2023年度までを目処に構想の実現を目指していたが、前倒しされ、2021年3月末までにほとんどの小中学校への端末導入が完了した。
GIGAスクール構想の柱となる3つの取組がある。
それは
「ICT環境の整備」
(高速大容量の校内ネットワーク/児童・生徒に1人1台の端末/効率的、効果的な調達を支援)
「ソフトの充実」
(学習者用デジタル教科書/教材の活用促進/ICTを活用した学習活動の提示/AIドリルなどの技術実証)
「指導体制の強化」
(各地域の指導者養成/ICT活用教育アドバイザーによるワークショップの開催/ICT支援員などの外部人材の活用)
である。
私はこういったICTを用いた授業を積極的に行っていきたいと思っている。
ITだのAIだの叫ばれ、あらゆるものが自動化し、機械化している世の中において、なぜか学校という空間はそんな世界と断絶されてしまっている。
社会に出たらおそらく見ることはないであろう「黒板」や、今やメモをとるにしてもスマホやパソコンを用いるというのに「ノート」での書きこみを強要されていたり(ノートを書くことにも利点が大いにある)、これから答えのない問いに立ち向かっていかなければならない時代に答えのある問いばかり対峙させられていたり(もちろん、児童・生徒の主体性を育てるための教育を実践している学校もある)……、とにかく時代の流れに完全に乗れていないのが「学校」という空間なのである。(すべての学校がそうであるとは言えない)
これから学校はどうあるべきか?
その問題を解決しようと、上の人たちが考えたのが「GIGAスクール構想」なのだろう。
GIGAスクール構想に対して批判的な意見もいくつか見受けられるが、私としては「これからを生きる子どもたちのニーズに合った教育ができる」ことに対して大いに期待している。
告白すると、私は情報科の教員がうらやましいと思ったりする。
将来的に、情報科の教員免許をとりたいとすら思っている。
その大きな理由は、「これから子どもたちは情報の氾濫する複雑怪奇な社会を生き抜くことを強いられ、そのためにはITリテラシーや情報セキュリティーに関する知識、情報機器の基本的な操作方法などを知っておく必要があるから」である。
そして、「情報」という授業が大事であるということを、子どもたちは容易に理解させることができる。「情報」と「生活」は直結しているからである。日々の生活の中で情報機器に触れない日はほぼない。(逆に今の子どもたちに「古文」の大切さを説くのは難しいだろう)
さて、今回紹介するのは『賢い子はスマホで何をしているのか』である。
その中で紹介するのは、第五章の〈「学校」はこのままではいられない〉である。
未来の教育はどう変わるのか、記述していきたい。
2020年、コロナ禍により、学校はオンライン授業への移行を打診されるようになった。実際、大学ではオンライン授業を行っているところが多く、そのことに不満を持った学生が退学をするという事案がたびたび起こった。
そう聞くと、オンライン授業はよくないというふうに思われるかもしれないが、実のところどうだろうか?
(主に大学でのオンライン授業をとりあげる)
確かにオンライン授業は機材がそろっていないと授業を受けられないといった点やネット環境が不安定だと満足して授業を受けられないという点など、「ネット環境」を伴う問題点が挙げられる。また、対面に比べて味気なさを感じたり、ディスカッションができない、友だちと会えないといったデメリットがある。
だが、メリットもある。
コメント欄にがんがん質問を書き込むことができるという点である。これまでは疑問に思っても挙手できなかった学生が、かんたんに質問できるのである。また、オンラインでコメント欄が見られるならば、教授は「この質問はみんなで共有すべきだな」と思うものに答えることができる。
また、対面だと、だいたいの学生がうしろのほうの席に座りたがるが、オンラインなら全員が最前列に座っているような臨場感があるし、リアルな場所で人に会いたくない人にとっても、人に会わずに授業を受けられるというメリットもある。(自閉症の子や不登校がちの子(小・中・高の場合)でもかんたんに授業に参加できるということである。)
ゲスト講師を呼びやすいというメリットもある。
わざわざ遠方から来ていただかなくても、パソコン一台あれば、その場で講義を行うことができる。頼む側からしても、時間をあまりとらせないかたちで授業をしてくれるよう頼めるわけだ。VIP講師を呼びやすくなったのは、オンライン授業における大きなメリットである。
筆者はこう述べる。
「自分は何をやりたいのか? そこさえ明確なら、道は開けます。そのために必要な学習コンテンツや、それを教えてくれる人間とマッチングしてくれる仕組みは、いつか必ず登場してくるでしょう。」
これはいわゆる今現在教育が「個別最適な学び」を育成する方向に舵をとっていることを踏まえての意見だろう。
学習指導要領や検定教科書という存在が、一律に同じ内容を教えるという、近代教育を象徴するものであることを考えると、なんだか文部科学省の目指す「個別最適な学び」という文言が矛盾してしまっているふうに思える。
筆者は、個別最適化された学びが進めば、学習指導要領や検定教科書も意味をなさなくなってくるだろうと予想している。
その予想が当たるか外れるかはいったん置いておいて、「個別最適な学び」は非常にいいものである。そもそも同じ教室の中、同じ授業を行うというのは、現在の教育システム上仕方ないことではあるが、やはり無理のあることだと思わざるを得ない。
現在の教育システムでは、必ず落ちこぼれも吹きこぼれも生まれる。そして、両者はかなしいかな報われることはない。落ちこぼれはますます授業についていけず、吹きこぼれは授業を退屈だと感じ、自己研鑽の機会を失う。学校が個性を奪う場だと言われて久しいが、そのゆえんをそこから垣間見ることができるだろう。そりゃ、スタディアプリで十分だという意見が出てくるわけだ。
授業は、やはりその子に合ったスピードで行うべきである。
15歳の子が大学レベルの内容を勉強してもいいし、10歳の子が小学一年生レベルの内容を勉強してもいい。
もっといえば、複数の学校で学んだっていいし、家でも図書館でも好きな場所で学べばいい。一斉授業がなくなれば、時間割もなくなり、不登校という概念もなくなり、入院中の子どもも病室で学ぶことができるようになる。
これが「個別最適な学び」の真の姿だ。
……と、まあ、正直「机上の空論」「空中楼閣」に思えてならないのだが、どうだろうか? そんなふうに冷めた目で見るのはよくないのかもしれない。しかし、どうしても冷めた目で見てしまう。実現不可能だろう、とぼやいちゃう。
私自身、ICT教育を用いた授業を積極的に行いたいし、個別最適な学びを積極的に取り入れたいと思うが、今後果たして、「一人ひとりに合った授業」というものが実現されるのだろうか? 一斉授業はほんとうになくなるのか? 時間割がなくなるのか? ……そう言われたら、うーんと思わざるを得ない。
筆者は次のようなことも言う。
入試だってなくなるかもしれません。デジタル化で学習データがたまっていけば、その履歴で評価することができるからです。一発勝負の試験だと、たまたま体調の悪かった子は、それまでの努力がその時点では報われませんでした。普段の勉強で評価されるのなら、そっちのほうがよっぽど公平です。
学ぶ場所が学校だけでなくなると、学習データの管理が大変です。「本当にそれが信頼に足る履歴なのか?」という疑念も出てくるでしょうが、ブロックチェーンの技術を使えばクリアできます。仮想通貨にも使われている技術で、改竄できないのです。
〈中略〉ブロックチェーンに裏付けられた学習履歴があれば、企業側は自社が求める能力をもった人材なのかどうか、一発で見分けられる。面接の短い時間で学生の適性を見抜こうとするより、よっぽど効果的にマッチングできるのです。就活という言葉も消えていくかもしれません。
やはり、夢物語に思えてならない。
しかし、この夢物語が現実になれば、サイコーであることは言うまでもない。
そして、そのサイコーな未来に向けて、AI研究者、プログラマーは水面下で頑張っている最中なのかもしれない。
そう思うると、さっきの冷めた目であれこれ思ってしまったのは、なんだか申し訳ない気持ちにもなる。
いったん、私見は置いておく。
筆者は学校という場の解体を望んでいるわけではない。
むしろ、「学校の場としての機能」は残るだろうと述べている。
学びには仲間が必要であり、助け合ったり、刺激を与えあったりする学習コミュニティの価値はなくならない。親が見ていないところでも安心・安全ない場所であるのが学校であるという点で、学校が必要不可欠な「場」であることは容易に理解できるだろう。また、勉強以外のイベント、体育祭・文化祭などは友だちとともに頑張り、成長する機会である。そういった学校の果たす役割はこれからも失われることはないと思われる。
(私自身は、学校というのはいろんなひとたちと触れ合う場として認識している。社会にはいろんなひとがいる、いわゆる多様性に満ちた空間というのが社会であり、学校はその縮図であると言えるからである。)
先ほどまでずっと「学校×デジタル」という観点で話を進めてきたが、最後にちょろっとだけ「家庭×デジタル」の話をしよう。
デジタルというものは、低コストでなんでも体験できる。
たとえば、ピアノを習いたいと思った時、今までならば、めちゃくちゃコストがかかっていたが、今ではスマホひとつでピアノが弾けるし、弾き方だってYouTubeを見ればその動画が載っている。
このように、いまの時代は、何をやるにしても敷居がずいぶんと低い。いつだって低コストで体験できる時代なのだ。もっと言えば、子どもたちにいろんな体験をさせ、そこで「やりたい」ことを見つけさせることができる時代になったのだ。
これから家庭内では、子どもたちにスマホなどの機器を気兼ねなく渡し、好きなだけ触らせ、いろんなことを体験させることが望ましいとされる(もちろん、情報の取り扱い・セキュリティーの面について十分に留意する)。
筆者の立ち上げたNPO法人CANVASのワークショップの紹介が本書にいくつか書かれていたが、実際、そこに参加する子どもたちは食いつくようにプログラミングに夢中になっているそうだ。
こういったデジタルに強い子ども―デジタル・チルドレンが創造する未来は明るいと思う。
よりより学びの実現に向けて、従来の社会の障壁を取り払ってくれるかもしれない。
もしかすると、学校の旧態依然とした体制すらも?
……今はまだどこか冷めた目で本書を読み通してしまった私をいつかデジタル・チルドレンが驚かせてくれる日を楽しみにして待つ。
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