平田オリザ『わかりあえないことから』

 コミュニケ―ションについて書かれた新書。

 コミュニケーション教育が求められている昨今、どこに言ってもコミュニケーションは必要だと叫ばれる昨今、面接で勝ち上がるためにコミュニケーション能力はこれ以上ないほど重要だといわれる昨今。

 

 昔は寡黙なひとがいいとされていた。

(頑固でなかなか口を開かない職人のような人=渋い って定型イメージ)

 だが、昨今はそのような人物は求められていない。

 開かれた社会になったから、寡黙ではいられない。

 つらい社会なのか、いい社会なのかは、その人の価値観によりけりだが……

 

 けっこう、人見知りだという若いひとは多い気がする。

 職員室に入るのが嫌だっていう学生は多いし、電話で誰かと話すのは苦手だって学生は多い。(他人事のように書いているが、私もそれ)

 それなのに、大人になれば、そういったひとはいなくなる。

 なぜだろう?

 克服したから?

 それとも、そういった人見知りは淘汰されるから?(←怖い)

 

 まあ、いずれにしても、コミュニケーションが苦手だってひとも社会に出たら、そんなことを言えなくなってしまう昨今。

 

 だが、平田氏はこういう。

 

 子どもたちのコミュニケーション能力が低下しているわけではない。しかし年々、社会の要求するコミュニケーション能力は、それを上回る勢いで高まっている。教育のプログラムは、それについて行っていない。

 

 なるほど。

 

 

子どもたちは、このギャップを敏感に感じ取り、大人になることを嫌がってしまう。もちろん、大多数の子どもたちは、どうにかそこは折りあいをつけてうまくやっていくのだろう。しかし、少し心の弱い子は、引きこもってしまったり、ニートになってしまったり、あるいは心を病んでしまったりする。それらは決して、その子の努力が不足していたとは言いきれない側面が多々ある。だって、優しい先生も、優しいお母さんも、異なる意見を持った人とうまくつきあっていく方法なんて誰も教えてくれなかったのだから。みんなわかってくれたのだから。

 そのような環境で子どもを育ててしまった以上は、その子どもたちが「どうして、みんなわかってくれないの?」と感じてしまうことを、単純に甘えだと切り捨てることはできないだろう。

 

 

 じゃあ、どういった方法で「コミュニケーション能力」を向上させるのか?

 

 やはり、体験教育だそうだ。

 障碍者施設や高齢者施設を訪問したり、ボランティアやインターンシップ制度を充実させる。あるいは外国人とコミュニケーションをとる機会を格段に増やしていく。とにかく、自分と価値観やライフスタイルの違う「他者」と接触する機会を増やしていく。

 そこで平田氏の畑である「演劇」の必要性を説いていく。

 まあ、演劇については、読んでいて「大切だね」と思ったが、今回はあまり多くは触れない。

 

 

 

1.口下手であること

 

 クラスに何人かいるだろう「おとなしい子」や「無口な子」。

 そういった子たちは、学力が劣るわけでも、問題行動があるわけでもない。

 そんな子たちにもコミュニケーション教育を行っていくべきなのか? という疑問。

(私はそういった子たちに無理やり話をさせるような授業はなるべくしたくない。その子たちの気持ちが痛いほど理解できるから。しかし、コミュニケーション能力は大切だってことも理解できる。だから、悩ましい)

 

 平田氏は「理科が苦手」「英語が苦手」といったものと同じように「コミュニケーションが苦手」と捉えることができるといっている。

 理科・英語が苦手とかの教科の苦手は「後天的な資質」であるが、コミュニケーションは「先天的な資質」だと思われがちである。だが、そうではないというのだ。コミュニケーションができないのは人格の問題ではなく、特定の教科が苦手だって程度の問題であるといった見方をすべきである、と述べられている。

 

 ところで、就職に強い学生のタイプはふたつに分けられるという。

 ひとつは体育会系の学生。もうひとつはアルバイトをたくさん経験してきた学生。

(あくまで、平田氏の私見

 ようは、大人とのつきあいに慣れている学生だ。

 大人とのつきあいに「慣れ」れば、いいというはなし。

 

「世間で言うコミュニケーション能力の大半は、たかだか慣れのレベルの問題だ。」

 

 これが真理なのだろう。

 

2.わかりあう文化

 

 日本社会は、ほぼ等質の価値観や生活習慣を持った者同士の集合体=ムラ社会を基本として構成され、その中で独自の文化を培ってきた。

 そのため、「対話」という概念が希薄である。

 日本社会独特のコミュニケーション文化を筆者は「わかりあう文化」「察し合う文化」と呼んでいる。

 対して、ヨーロッパは、異なる宗教や価値観が、地続きに隣り合わせているため、自分が何を愛し、何を憎み、どんな能力を持って社会に貢献できるかを、きちんと他者に言葉で説明できなければいけない社会であり、筆者はこれを「説明し合う社会」と呼んでいる。

 

 柿食へば 鐘が鳴るなり 法隆寺

 

 この俳句を「わかりあう文化」圏では、夕暮れの斑鳩の里の風景を思い浮かべることができる。一方で、「説明し合う文化」圏では、「柿を食べていたら偶然鐘が鳴ったのか、鐘が鳴ったから柿を食いたくなったのか」いちいち説明しなければならない。

 

 さて、「対話精神」に乏しい日本社会。

 そもそも、この「対話的な精神」というのは、異なる価値観を持った人と出会うことで、自分の意見が変わっても潔しとする態度のことだ。それどころか、自分の意見が変わることに歓びさえ見つける。

 日本では、説明しなくてもわかってもらえる事柄を、その虚しさに耐えて説明する能力が要求される。(そういった意味では、「怠惰」だね)

 これを筆者は「対話の基礎体力」と呼んでいる。

 異なる価値観と出くわしたときに、物おじせず、卑屈にも尊大にもならず、粘り強く共有できる部分を見つけ出していくこと。ただそれは、単に教え込めばいいということではなく、そうした対話を繰り返すことで出会える喜びも、伝えていかねばならない。

 意見が変わることは恥ずかしいことではない。

(現に、私は事あるごとに意見を変える。これはこれでどうかと思うが)

 

3.演劇とリアル

 

 はー、なるほどーって思ったところがある。

 

 列車のなかで他人に声をかける

 

 このシチュエーションを演劇(対象は高校生)にとりいれると、だいたいが「旅行ですか?」と尋問口調になるそうだ。

 その理由は、列車内で初対面のひとに話しかける経験などないからだそうだ。

 日本人にはそういう傾向があるのは周知の通りで、アメリカ人が誰にでも話しかけるというのも周知の通りだ(もちろん、あくまで傾向である)。

 だが、これに関して、平田氏は文化的背景・言語の面で反駁している。

 

・文化的背景について

 アメリカの場合、多民族国家の宿命で、自分が相手に対して悪意を持っていないということを早い段階でわざわざ声や形にして表さないと、人間関係の中で緊張感、ストレスがたまってしまう。

 対して、日本は、シマ国のなかでムラ社会を築いてきたため、比較的のんびりとし、自分が相手に悪意を持っていないということをわざわざ声や形に表すなんて野暮なことだという文化的背景がある。

・言語について

 日本は、敬語が発達しているので、相手との関係が決まらないと、どんな言葉で話しかければいいか決まらないため、必然的に「話しかけにくい」ことになる。

(見た目から年上だとわかる場合は敬語を使えば大丈夫だが、同い年くらいは悩みどころではないか? まあ、いずれにしても、敬語を使うのが賢明か)

 

 韓国では敬語に厳しい国であるそうで、ひとつ年上でもしっかり敬語で話さないといけないらしい。(しかも、敬意が強ければ強いほど、言葉を付けたし、長く伸びていく。そのため、韓国のサッカーチームで年上のひとにパスを回す際に「先輩様、ボールをお蹴りします」みたいなことを逐一言わないといけないみたいな状況が生まれたそうだ。だが、外部コーチがそれではいろいろ支障があるので年上年下関係なく話せということになってから、チームは強くなっていたそうだ。)

 

(スポーツチームは上下関係が厳しいのが常だが、私は年齢層がばらばらのチームでは年齢の壁を取っ払えばいいのに、と思う。もちろん、それは試合中においてだ。試合以外では、ある程度年下は年上に敬意を払うべきだとおもう。だが、それが年下を委縮させるものになってしまってはいけない。)

 

 とにかく、高校生のほとんどが「旅行ですか?」というセリフをうまく言えないのは、日本の文化的・言語的背景があるにしろ、そのセリフが普段は使っていない言葉であるからであることに変わりはない。

 平田氏は、そういった言葉をその子たち(高校生)のコンテクスト(文脈 ※平田氏は「その人がどんなつもりでその言葉を使っているか」という意味で用いた)の外側にある言葉だとした。

 このコンテクストの外側にある言葉のことは「ずれ」であり、これがコミュニケーション不全の原因になるそうだ。

(たしかに、高齢者に席を譲る際に初めて「どうぞ、座ってください」と言おうとなると、緊張する。しかし、それが言いなれたものならば、なんでもないようにできる。こう考えると、コミュニケーションは「慣れ」の部分が大きいのだろう。前にも書いたが)

 

4.リーダーシップ教育

 

 コミュニケーションとは「論理的に物事を話す」ことだというイメージが強い。

 そして、リーダーシップ教育ではそうしたコミュニケーション能力が必要とされる、とよく言われる。

 だが、平田氏はそれよりも「社会的弱者のコンテクスト」を理解すべきだと言っている。社会的弱者――論理的にしゃべられない立場のひとたちの気持ちを汲み取るべきだということなのだ。

(社会的弱者の例(というか子供の例)、子供が「お母さん、今日、僕、宿題やっていかなかったんだけど、田中先生、全然怒らなかったの!」と言ったとする。これに対し、「よかったね」とか「宿題はしないとダメ」とか言ってしまうのではなく、その子供が言外に「田中先生が好き」というメッセージを発していることに気付いてあげる。これが弱者のコンテクストを理解するということなのだ)

 

 こういう言外のメッセージを汲み取ることもコミュニケーションの範疇である。

 男が好きな女の子に「ボウリングに行こう」と言うのはデートのお誘いであって、彼女がそれを字面のまま受け取って、「そんなにボウリング行きたいんだね」と言ってしまったら、そこでコミュニケーションのずれが生じる。

 

5.シンパシーからエンパシーへ

 

 シンパシー=同情

 エンパシー=共感

 同情、すなわち同一性。

「いじめられた子の気持ちになってみよう」というのが、いじめられっ子の「役になりきる」というロールプレイがある。つまり、「いじめられた子」に同情するということだ。

 だが、「いじめられた子の気持ち」を想像できないから、いじめが起こるのである。だから、そのロールプレイには意味がない。

 ここでエンパシーの出番だ。つまり、共感、共有性。

 いじめられた子たちの気持ちに共感を示す。

 これは根本的ないじめの解決にはならないかもしれないが、同情のように上から目線で「かわいそうだね」と言われるよりかは、「そうなんだ」と共感を示したほうが数百億倍いいはずだ。

 

重松清『青い鳥』に村内先生というひとが登場する。非常勤講師で吃音症の先生だ。その先生についての文章。

 

 先生は、この街の中学校で、二年生の女の子のそばにいた。ひどいいじめに遭ってひとりぼっちになってしまったその子に、先生はたいせつなことを伝えて、学校を去っていく。

 助けた、とは先生は言わない。救った、とも言わない。ただ、「間に合った」とほっとした顔で笑う。

 

 先生は悩み苦しむ生徒のそばにいる。

 ひとりぼっちで苦しませないように、悩みをひとりで抱え込ませないように、先生は生徒のそばにいる。

 この〈そばにいる〉ことこそが共感ではないか、と思う。

 決して、上から目線でもなく、恩着せがましくもなく、心に寄り添ってあげる。

 共感。)

 

6.協調性から社交性へ

 

 悩み苦しむ子供たち。

 すべての悩みは対人関係の悩みである。

 そんな言葉があるように、子供たちの悩みのすべて(といっても過言ではない)は人間関係によるものである。

 その中に「協調性」による圧力に押しつぶされているような子もいるのではないか。

 うまく集団に溶け込むことができない、足並みをそろえることができない。

 しかし、平田氏は「協調性」よりも「社交性」のほうが大事だと述べている。

 似たような意味の言葉だが、本質は異なる。

 そもそも人間の価値観はその人によって異なるものだし、それら価値観をひとつにするなんて理論上無理な相談である。

 ここで、社交性の出番である。

「ばらばらな人間が、価値観はばらばらなままで、どうにかしてうまくやっていく能力」

 これが求められている。

 うわべだけの付き合いでいい、表面上の交際でいい。

 愛し合う恋人役である男女が舞台から降りれば言葉を交わさない……それでも、舞台に上がって、演劇をこなしてくれれば、それでいい。

 

 心からわかりあう関係でなくていい、

 

 そもそも、心からわかりあえないのだから。

 

 心からわかりあえない人間同士が、どうにかして共有できる部分を見つけて、それを広げていくことならできる。

 

 そういう考え方でいいのだ。

 

7.まとめ

 

 本書のタイトル『わかりあえないことから』

 

 わかりあえないことから、コミュニケーションを考えていこう。

 

 そういう意図が読める。

 

 周囲を見渡せば、コミュニケーション能力の高いひとたちばかりで、つらい思いをしてしまうのだが、「みんなわかったような顔をしているだけだ」と思えば、気が楽なのかもしれない。

 表面上でもいい、うわべだけでいい。

 それなりにやりすごすことができていたら、それでいいんだ。