自尊感情の低い子どもたちに声掛けを

 世の中には生きづらさを感じているひとが多くいる。

 老若男女問わずそういうひとはいると思うが、私は今回「子ども」に絞って書いていく。

 自尊感情の低い子ども。

 

 そもそも、なぜ子どもたちは自尊感情が低いのか?

 古荘純一『日本の子どもの自尊感情はなぜ低いのか』によると、以下のようにある。

 

 学校というのは、社会の中の、「子どもたち」だけを同じところに全部まとめてしまう場所です。子どもたちの中には、授業の内容を容易に理解し、過程で授業内容よりも高度な学習をさせるような教育熱心な親を持つ子がいたり、塾で受験勉強をする子もいます。他方、家庭で虐待を受けたり、三食をきちんと食べさせてもらえなくて、勉強どころではない子どもいます。このような子どもすべてが同じところに通っているわけです。

 もちろん大部分の家庭の子どもたちは、その両極端には当てはまらないのですが、それでも学校で起きる出来事に一様に振り回されているのが現状です。特に主張の激しい一部の保護者の意見に振り回されることが目立ってきました。給食費納入などの義務には無頓着な反面、権利意識のみ強い保護者は、何か悪いことが起きると学校の責任だと訴えます。教師が子どもたちに積極的にいろいろなことを教えようとしても、教育委員会やPTAからの意見で、あれもダメ、これもダメとなって、学校行事や体育など実技系の授業が制限され、学校は実体験をともなう授業なども少なくなってきます。このような学校の状況では、子どもが主役であるのか、保護者や教師が主役であるのか、わからないような状態になっているといえないでしょうか。

 文部科学省の方針で授業時間が増えることになりました。先生にとっても負担が増えて大変なことになりますが、子どもたちにとっても、居心地の悪い学校にいる時間が長くなり、負担が増えるのです。

(中略)

 学校の先生は、発達段階の異なる子どもたちを四〇人近く教室に抱えて、誰に焦点を当てて授業をしたらよいのかわからない状況ではないかと思います。もちろん、それぞれに工夫をされている先生はたくさんいるのでしょうが、基本的には、文部科学省のつくったカリキュラムを一律にこなすことで精一杯ではないかと思います。そういったなかで、例えば「この子はこれをやらせたほうがいいのではないか」ということがあったとしても、それを実現することはなかなかできないのです。

 それがもし、学力の低い子で、家庭のサポートもない子であった場合には、その子自体が早々にあきらめてしまうことにつながります。

 小学校の六年間、毎日毎日、自分が相手にされていない授業を受けていると、自分はとるに足りない存在である、と思うようになり、学校に居場所がない、ということを悟ってしまいます。

 (中略)

 成績のすぐれない子があきらめてしまうと、四〇分なり五〇分なりの授業に協力するということに苦痛を感じるようになってしまいます。そうするとそういう子には、わからなくても騒がないようにして静かに座っていなければならない、ということを指導しなければならなくなります。皆の邪魔をせずに座っているだけという状況は、無気力や無力感を生むことにもつながります。

 

 長い長い引用をご容赦いただきたい。

 重要な文章だ。

 学校における問題点を記したうえで、子どもたちの自尊感情が低くなるメカニズムを明確に指摘している。

 私の勤務している学校で、情報科があるのだが、生徒の中にはキーボード操作もままならないひともいれば、めちゃくちゃできるひともいる。彼ら全員が同じパソコン教室にいて、基本的に授業は前者のまったくできない方に合わせて進むため、後者のめちゃくちゃできる方にとってはとにかく退屈な時間である。

 それだけならまだしも、今度は前者のまったくできない方がやがて授業にもついていけなくなり、授業が苦痛になってくる。それが自尊感情が低くなる始まりなのかもしれない。

 実際、賢い子の自尊感情は比較的高めなんだろう。

 勉強ができると、周りから褒めたたえられるんだから。

(けれど、そういった子たちは社会に出て、勉強以外のものさし(コミュニケーションとか)で測られるようになってから、自尊感情が低下することがある。)

 私は、これから生徒ひとりひとりに細かい声掛けを行っていきたいと思う。

 教室内でひとりぽつんと席に座っている子。

「できたかな?」「わかるかな?」

 そんなふうにひとことでも声をかけてあげれば、「私は先生から無視されていないんだ!」と思ってくれるかもしれない。

 私としては、その「声掛け」こそが、子どもたちの自尊感情を高める有効な方法のひとつではないかと思う。

 そして、「褒める」ことも大切だ。

 私はこの「褒める」ことができていなかったように思う。

 プリントを回収して、ちゃんと書けていることに驚き、「できてるじゃん」と独り言ちることは何度もあったが、それを本人に対しては言っていなかったように思う。

 私は「声掛け」「褒める」をこれから徹底していきたい。

 

 自尊感情という話で、もうひとつ。

 これは雨宮処凛『学校、行かなきゃいけないの?』を読んでいて、なるほどなあと思った部分があったので、また引用していこうと思う。

 

 確かに、ちょっとした失敗談が「大炎上」につながりかねない世の中だ。一方で、「失敗談」を語る大人は必ず最後に「だけどそれを乗り越えて俺はここまで成功した」という美談や武勇伝にしたがる。

「あれが一番迷惑なんですよね。僕、子どもが一番欲しがっているのは、大人たちの武勇伝じゃないと思うんですよね」

 まったくもって同感だ。子どもの頃、大人たちのただの失敗談に私はどれほど飢えていただろう。特にいじめられていた中学時代は「自分もいじめられた」という大人の話を聞きたくて仕方なかった。しかし、身近にそんな話をしてくれる大人は一人もおらず、逆に「自分はこんな苦境を乗り越えた」と自慢する大人ばかりだった。だからこそ、こんなに惨めな思いをしているのは世界中で自分だけなのだと思い込み、そんな自分は「普通」のレールから一人だけ脱落してしまったのだと本気で絶望していた。

「ただの失敗談、情けない子ども時代を話してくれる大人がもっといれば、子どもたちは自分たちの失敗も話せるし、失敗しても生きていけると気づくんですけどね」

 

 括弧しているのは精神科医の松本俊彦さんの発言だ。

 ちなみに松本さんは、学校における子どもたちの管理が、刑務所と軍隊をモデルにしているから、基本的に学校は苦しいものであると述べている。だから、ヒエラルキーも生まれるし、いじめも生まれるんだと、本質的な指摘をしている。

(松本さんは、集会とかで教師が生徒がざわざわしていると、教師が『静かにしろ!』と怒声を発することを、一般社会でやるとパワハラ案件だと言っているが、それに関しては首肯できない。そもそも一般社会の人間と、一〇代の人間は発達段階が違い過ぎる。この性質の異なる両者を混同して考えてはいけない。ダメなものはダメ、してはいけないことはしてはいけない。その境界を知らしめるために、ある程度の厳しい指導は必要だ。

 以下のツイートを思い出した……。

 前に「褒める」ことを積極的にしたいといったことを述べたが、ときには厳しい指導も必要となるため、私としてはその共存が大きな課題となる。 )

 失敗談はひとを安心させる。

 しくじり先生が人気を博している理由はそういうところにあるのかもしれない。

 ブレーンストーミングと同じ仕組みだ。

 ブレーンストーミングを行うにあたって、グループ内の年長者、または賢いひとやブレスト慣れしているひとがあえてとんちんかんな意見を言ってあげることができたらいい、といった話を聞いたことがある(藤原和博氏)。その理由は、ブレーンストーミングはとにかく意見を出しまくることに意義があるのに、他者を圧倒させるようなすばらしい意見を言ってしまったら、ほかのひとたちは萎縮してしまい、自分の意見を言えなくなってしまうからだそうだ。だから、あえて年長者などがとんちんかんな意見を言ってやることで、場の雰囲気をゆるませて、意見を言いやすい環境をつくるのだ。

 それと同じように、失敗談を話してやることで、それを聞いたひとは「もしかしたら人生は私が思うほどに過酷じゃないのかも、なんたってこんなダメな人がヘラヘラして生きてられるんだから」と安心してくれるかもしれない。

 そういう心理からか、私は岸政彦の『断片的なものの社会学』を購入した。

(いろんな人間のいろんな人生が描かれているそうだ。未読)

 だが、一歩間違えると、「こんなやつよりは私の方が上だ」みたいな優越感に浸る嫌な奴になりかねないので注意が必要だ。

 

 私はこれから「生きづらさ」を覚える子どもたちを少しでもラクになってもらうために「言葉」を綴りたい。noteとかで。

 また私は教師をこれらかやっていくにあたっても「生きづらさを抱える子どもたち」への支援にフォーカスを当てた教育というかそういうのを行っていきたい。