Z世代は親友のいらない未来を夢見るか?

 

 

 Z世代という名前は、原田曜平『Z世代 若者はなぜインスタ・TikTokにハマるのか?』という著書を見て、初めて知った。

 なぜ、「Z」なのかというと、上記の著書いわく、「アメリカでは彼らより上の世代が「ジェネレーションX」(諸説あるが1960年代初頭または半ばから80年頃までに生まれた世代)と「ジェネレーションY」(諸説あるが80年代序盤から90年代中盤または2000年代序盤までに生まれた世代。近年では、ミレニアム〈新千年紀〉が到来した2000年前後か、それ以降に社会に進出したことから「ミレニアム世代」あるいは「ミレニアルズ」と呼ばれることが多い)と呼ばれているためです。/つまり、アルファベット順でジェネレーション「X」のすぐ下の世代がジェネレーション「Y」(またはミレニアル世代)、ジェネレーション「Y」のすぐ下の世代がこの「ジェネレーションZ(Z世代)」ということになります。」とのこと。

 

 若者のテレビ離れが言われてずいぶん久しい。

 だが、テレビ視聴者の年齢層は高齢者に多く、実際日本の人口の割合は高齢者の方が大きいため、番組側からすれば別に問題ないように思える。しかし、近年、第七世代の若い芸人がいろんなテレビ番組で出てくるようになったことからわかるように、テレビも徐々に若者向けの番組を制作しようと鋭意努力している。「インスタ映え」「バズる」といった言葉を連呼したり、「Twitter」のハッシュタグでクイズに参加する視聴者参加型にしたり、「TikTok」の曲をバックで流したり、その努力は涙ぐましいほどだ。

 インスタにせよ、Twitterにせよ、TikTokにせよ、すべてSNSである。

 若者といえば、インターネット。

 インターネットといえば、若者。

 そう言っても過言ではないほど、インターネットは若者を象徴する代名詞的なものである。

 さて、そんなインターネット世代の若者のコミュニケーションの在り方はどうなったのか?

 

 大黒岳彦『「情報社会」とは何か? 〈メディア〉論への前哨』には、こうある。

 

〈マスメディア〉のパラダイムにおいて教育を受けたわれわれやそれ以上の世代と、〈ネットワークメディア〉のパラダイムにおいて世界認識を構築してきた〝デジタル・ネイティヴ″の世代とは、そもそもその〝世界観″が異なる。

 

 デジタル・ネイティブの世代の人間(つまりは若者)のインターネットのコミュニケーションを著者は「TPOを基本的に顧慮しない、時と所を弁えないコミュニケーション」だと指摘している。たとえば、インターネットが普及する以前なら「悪口」はその対象である当人に知られないように流布していったが、インターネット普及以後はその「悪口」をさほど罪悪感を覚えることなく、SNSやサイトなどに書き込めるし、「悪口」言われる側も頑張れば、それを見つけ出して読むことさえできる。

 この現状を大黒氏は「インターネットの過剰」と形容している。

 あきらかにコミュニケーションの在り方は変容しているのである。

 メディア技術は、接続と疎隔を同時成立させる。

 簡単な例でいう。友だちと話したいとなると、LINEの無料電話を使えば、わざわざ移動しなくても〈接続〉できる。その友だちと喧嘩してしまったら別に連絡しなくていい。つまり、〈疎隔〉できる。仲直りしたいと思ったら、また〈接続〉すればいい。地縁的共同体の時代では考えられないようなことが可能になっている。そりゃ、コミュニティーに変化があれば、コミュニケーションのかたちも変わるだろう。

 

 月並みなことを書くが、SNSの普及によって、人間関係の希薄化が進んだと思う。

 大学生を例に出す。

 ただでさえ、人間関係の希薄化に拍車をかけるように、新型コロナウイルスの感染防止を受けて、大学における対面授業の禁止、そして、大学生はいま大学内に友だちがいないという現状に至っている。

 

 冒頭に載っけた動画を見てほしい。

「大学で「友達できない」新入生で3割以上!」

 そんななかだからこそ、大学生はSNSのDMでつながろうとする。

 しかし、DMアタックを何度したとしても、ほんとうの意味で友だち(つまりは親友)にはなれない。

 だが、別にそれでもいい、とするひともいる。らしい。

 動画内にて――

「Z世代は親友いらず!?人間関係はコスパ重視?」

 といった煽り文句。

 やや主語が大きい気はするが……。

 人間関係をコスパで考えるのはどうだろう? と、人間関係希薄な私は考える。

 コスパ、つまり、メリット・デメリット(損得勘定)で親友が必要か不要かを考えるというわけだが、番組内では親友のメリットを「困った時に頼れる」「孤独を感じずに済む」「気を使わなくていい安心感がある」、デメリットを「自由時間が少なくなる」「交際費がかかる」「深入りすると、けんかやトラブルが起きるリスク」といったふうに紹介してあった。コスパが悪いというのは、自分のスキル向上するための時間を親友との時間のために奪われてしまったり、いっしょにどこかに出かけるためにお金を使ってしまったり、けんかやトラブルで心情的につらい思いをしてしまったり、と、そういったところを言っているのだろう。

 

 論理的すぎるのではないか?

 

 最近「論理的」すぎるのはよくないなって思う。                                                                                                                

 ちょっとばかり感情に身を任せてもいいのではないか?

 例を挙げる。

 野球を見て、ひいきしているチームが勝っていたらうれしく思うだろうし、負けたら悲しく思うだろう。だが、よく考えてみると、なぜ自分とはまったく関係のない存在にそれほどまで感情をかき乱されなければならないのか? これはきわめて「論理的」ではないことだろう。

 結婚だってそうだ。

 一生独身でいるほうが、お金はたまる。

 結婚して、子どもを産んで、子育てをして……お金は溶けるように消え去っていく。

 趣味だってそうだ。

 趣味はない方が、お金はたまって、その分を生活費に充てれば最低限のくらしは保障される。

 だが、世間に「論理的」なひとが増えたような気がする。

 結婚するとお金がかかる、趣味を持つとお金がかかる、だから、必要最低限のくらしをするためには、なるべくいろんなものを排除しようと考えるひと。

 そう、ミニマリストだ。

 この単語も近年聞くようになったのだが、もしかすると、Z世代の「親友いらず」思想と符合するものがあるのかもしれない。

 だが、あまりにものごとに論理性を求めると、心が豊かではなくなっていくのではないか?

 生きていくうえで、別にアニメは見なくていいだろうし、漫画も読まなくていいだろうし、野球観戦も必要ないし、結婚もしなくてもいい。それを制限する法律だってない。

 私はアニメを見て、心を揺るがされることはあるし、野球でひいきにしているチームが勝ったらうれしく思う、その率直な思いを大事にしているし、将来的に結婚もしたいと思っている(できるかしらんが)。

 その理由を問われたところで、私は答えられない。

 答えられなくて当然なのかもしれない。

 だって、それは「感情」と深くかかわっていて、そこには「論理的」なものなどひとつとしてないのだから。

(「いかに近代化が進もうとも、いかに社会規範が浸透しようとも、人間は時として合理性よりも感情を優先する愚かな存在である」と、幼女戦記デグレチャフは言っていた。)

 

 人間関係にコスパを求めるのは野暮なことだ。

 柏尾眞津子・増田匡裕・和田実『対人関係の心理学』では、少々古い研究だが、以下の10領域のうちどれを同性の友人関係に期待するのか検討したものがある。

①相互依存(互いに役立つことができる:甘えられる)

②協力(互いに協力し合える:困ったとき、助けれくれる)

③情報(話題が豊富で楽しい:自分の知らないことを教えてくれる)

④類似(趣味や好みが一致している:性格が似ている)

⑤自己向上(いろいろな面で刺激を与えてくれる:自分を向上させてくれる)

⑥敏感さ(よく気がつく:自分の気持ちを察してくれる)

⑦共行動(何かにつけ、一緒に行動できる:いつも一緒にいる)

⑧真正さ(言いたいことが言い合える:利害関係なく付き合える)

⑨自己開示(悩みを打ち明けることができる:なんでも話してくれる)

⑩尊重(自分を必要としてくれる:互いの個性を尊重し合える)

 

 結果、男女ともに一位は「⑧真正さ」であった。

 つまり、利害関係なく付き合える、というものである。

(男性は⑧真正さ⑩尊重②協力⑤自己向上⑨自己開示⑥敏感さ③情報④類似⑦共行動①相互依存の順、女性は⑧真正さ②協力⑩尊重⑨自己開示⑤自己向上⑥敏感さ③情報④類似①相互依存⑦共行動の順)

 だが、このデータは1993年のもの。

 昔は、利害関係なく付き合える関係こそ人間関係に求められていたということがわかる。

 前にも述べたように、世はインターネット大航海時代

 コミュニケーションの在り方も変わってきた。

 そして、求められる友人像も変わって来たのであろう。

(そのデータが欲しいのだがね。しがないひとりごとみたいなブログだから許して)

 Z世代のうちどれほど「親友はいらない」と言っているのかわからないが、もしそう言っているひとがマジョリティーに属するのならば、これからどんなふうに社会の空気がシフトしていくのか、少々恐ろしいような気もする。

 

 Abema newsでは、そんな希薄化する人間関係を「冷たい距離感」と言い表している。

 その原因は、「意図しない差別的発言を避けるため」「ハラスメントを避けるため」と書いてある。インターネットで差別的な発言をされたことやパワハラを受けたことなどをすぐに拡散できるようになったからだろう。それにより、ひとびとはその拡散を恐れるようになり、「冷たい距離感」を維持するように……。そして、利害関係なく付き合える友人を持てなくなった? 

 大黒岳彦『「情報社会」とは何か? 〈メディア〉論への前哨』には、こうある。

 

 インターネットが惹き起こしたコミュニケーションの過剰は、常に〈私〉を同化しようとして侵食してくる。

 

 また、大黒氏は、ネット上で他者と意思疎通を遮断した〈私〉が、〈私〉を映し出す無数の他者に向かって自己確認作業だけを繰り返しているといった旨を述べている。

 自己確認作業。

 自分が自分でいることを確認する作業。

 Twitterにおけるフォロワーがステータスだと思っているひとはそうではないのだろうか? Twitterが居場所であり、そこで自分が自分でいることを確認しようとしている。

この事象もまた、「冷たい距離感」の構築の一端を担っているのではないだろうか。

 

 インターネットが進化すればするほど、この「冷たい距離感」はどんどん冷やされて(?)いくのだろうか?

 

 ……とか思う、わけでした。

 

 

「情報社会」とは何か? 〈メディア〉論への前哨

「情報社会」とは何か? 〈メディア〉論への前哨

  • 作者:大黒岳彦
  • 発売日: 2010/08/12
  • メディア: 単行本