多様性、再考

 世間にはマイノリティーに属する人がいる。

 LGBTQ、アセクシャル、吃音症、場面緘黙症発達障害、ひとより繊細な「HSP」、字を書くのが苦手だという「ディスレクシア」、万引きがやめられない「クレプトマニア」

 こういった人たちは世間的に理解されないことが多い。

 吃音症の子に「ちゃんとしゃべれ」とか、場面緘黙症の子に「はっきりと声を出せ」とか、HSPの子に「そんなことくらいで気に病むなよ」とか、ディスレクシアの子に「勉強不足だろ」とか、そういったことを社会は言い続けてきたのだと思う。

 でも、昨今はそういったマイノリティーに存在がクローズアップされて、そういった人たちへの理解が昔よりかは進んだのだと思う。

 しかし、このマイノリティーへの配慮がもたらす問題もある。

 まず、一つはマイノリティーのマジョリティー化。

 私の好きな作家・朝井リョウの『正欲』に以下のようなセリフがある。

 

 多様性って言いながら一つの方向に俺らを導こうとするなよ。自分は偏った考え方の人とは違って色んな立場の人をバランスよく理解してますみたいな顔してるけど、お前はあくまで〝色々理解してます〟に偏ったたった一人の人間なんだよ。

 

 多様性社会が謳われている現在、「多様性=LGBT・多国籍」みたいな等号が成り立ってしまっている。

 いろんな性がある、いろんな人種の人がいる、そういった人たちを理解しましょう。それが多様性社会。……みたいな。

 自分の想像に収まるだけの「多様性」だけを礼賛して、社会の隅っこに隠れているマイノリティーの存在に気がつかないでいる。

 だから、本当の意味での「多様性」とは、そういった日の目に当たらないようなマイノリティーの存在も認めることで初めて成り立つものだと思う。

 

 多様性だ! と安易に主張する人がいるが、彼らはその多様性によって人々を一つの方向に導こうとする。多様性を認めないという人を排斥しようとする。

 多様性を認めると言うことは、そういった多様性を尊重しない人をも受け入れることではないか?

 もっといえば、多様性を認めるということは、巨視的な見方をもつことではないか?

 言うなれば、多様性を認めるということは、物事を客観的にとらえるということではないか?

 そういった考えもあるよね、と受け入れる。

 そういった態度こそ、多様性を認めるにあたって必要なスタンスであると思う。

 昨今の多様性を押し付けるというムーブメントは、真の多様性社会を志向する目的にそぐわないと思う。

 理解しがたいという人もいる。

 そういった人の考え方を捻じ曲げて、自分の思う考え方にさせるのが昨今の「多様性」なら、真の多様性はそういった人の考え方も受け入れる、ということだろう。

 いや、「受け入れる」のがハードル高いなら、「知る」ぐらいでちょうどいいのかもしれない。

 人間、誰しも肌の合わない人がいる。そういった人に対して、わざわざ対峙する必要はない。だから、「多様性を尊重する」ということに関しても、理解しがたい人の考え方を心から理解するわけではなく、理解したがたいが、そういった考え方をする人もいるんだと「知る」ぐらいでいいのだ。きっと。