「それはそれ。これはこれ」
最近、物騒な事件が多い。
ハロウィンの日に起きた地下鉄でのジョーカー事件、北新地のビルの放火、舞洲での倉庫の放火、共通テスト一日目に起きた切りつけ事件、立てこもり事件。
犯人たちがどういう生い立ちで、どういう思いで犯行に及んだのか。
そういった人たちの背景にあるものを考える必要がある、と私は思う。
なぜその人は犯行に及んだのかという疑問を考えることで、その原因にあるものを探り、悲劇を繰り返さないために必要な手立てを考えるにあたって重要なプロセスだと思う。
勘違いしないでほしいのは、これは犯罪者擁護の弁ではないということだ。
だが、自分のこの論に対して、「お前の家族や友人が被害に遭っても同じことを言えるのか?」と言われたら、返す言葉もない。
犯人の動機や生い立ち関係なく大きな怒りを覚えるし、許さないと思う。
犯人が犯行に至った理由を考える必要があるという意見を持っているが、身近な人が被害に遭えばそんなことを考える余裕はない。
論理的になるべきだと思っているが、いざ自分の身近な問題となると感情的になる。
ようは「それはそれ。これはこれ」なのだ。
世の中、割り切れないものが非常に多い。
それなのにひとは二極化をしたがる。
きのこの山派とたけのこの里派でわけるように、文系と理系でわけるように、陽キャと陰キャでわけるように、ひとは何かと分断思考をしたがる。
性的マイノリティへの理解とか外国にルーツをもつ人への理解が推進されているにも関わらず、世間はグレーを受け入れようとしない。
結局、ひとは対立が好きなのかもしれない。
勧善懲悪のアニメがはやるように、物事に白黒をつけたがるのが人間の性質なのかもしれない。
この「グレー」の存在をしっかり認めることで、柔軟的に物事を考えられるようになると思うのだけども、そうはいかないのが今の社会なのかもしれない。
「それはそれ。これはこれ」
でいいと思う。