多様性とは? ――朝井リョウ『正欲』より

 多様な性、多様な国籍、多様な病気、多様な趣味・嗜好……

 昨今の多様性ブーム。

 SDGsで「誰一人取り残さない」という理念を掲げているように、これからの社会ではこの多様性の理解が必要であると声高に言われている。

 

 確かに耳障りのいい言葉で、否定していい理念ではないのはわかる。

 しかし、多様性という言葉が都合のいい言葉として使われている傾向があると思う。

 東京オリンピックの点火式において大坂なおみ選手を「多様性の象徴」と記した記事に対して批判の声が集まったというのは記憶に新しいだろう。

 ハーフであることが多様性の象徴?

 そもそも多様性の象徴って何?

 LGBTQに該当する人は多様性の象徴?

 日本じゃない国のルーツを持つ「日本人」が多様性の象徴?
 障害を持っていることが多様性の象徴?

 じゃあ、外国にルーツを持たない、健康的な一般女性/男性は「多様性」という言葉の枠組みにカテゴライズされない存在なのか? 

 多様性が「互いに非常に異なる多くの人や物の集まり」を意味するので、そういった一般の人たちも「多様性」の枠組みに入るはずである。

 だが、昨今では「多様性」がLGBTQ、外国にルーツを持つ人、障がいを持つ人などを指し示す言葉になってしまっている。

 

 朝井リョウ『正欲』では、次のような叙述がある。

 

 多様性とは、都合よく使える美しい言葉ではない。自分の想像力の限界を突き付けられる言葉のはずだ。時に吐き気を催し、時に目を瞑りたくなるほど、自分にとって都合の悪いものがすぐ傍で呼吸していることを思い知らされる言葉のはずだ。

 

 多様性を受け入れようとすると、かならず限界が来る。

 たぶんだけど、世間一般の「多様性を受け入れる」はきっと「恋愛対象が異性ではない」「恋愛感情を持たない」とか「見た目は外国人なのに、日本語しか話せない」「国籍による差別を受ける」とか、それくらいのステレオタイプな事象に理解を示すことだと認識してしまっているのだと思う。

 だが、「恋愛対象が小学生」だったりすると嫌悪されるだけでなく警察沙汰になるし、『正欲』に登場する人物のように「水に興奮する性癖」については理解不能だと気持ち悪がられることだろう。そういった犯罪行為に発展してしまいかねないフェチを持っている人や、誰からも理解されないような性癖を持っている人は、人目を盗んでこっそりとその欲求を満たそうとする。「多様性社会」において、彼らが報われることは決してない。

 悲しいかな、社会的に白い目で見られるような性的指向をもって生まれてきた人間は今の多様性なる社会に迎合されていない。

 それが『正欲』に登場する人物の言葉にあらわれている。

 

 多様性って言いながら一つの方向に俺らを導こうとするなよ。自分は偏った考え方の人とは違って色んな立場の人をバランスよく理解してますみたいな顔してるけど、お前はあくまで〝色々理解してます〟に偏ったたった一人の人間なんだよ。目に見えるゴミ捨てて綺麗な花飾ってわーい時代のアップデートだって喜んでる極端な一人なんだよ

 

 これは八重子という女子に対して、水に興奮するという特殊性癖を抱えた大也の言葉である。八重子は大学でダイバーシティフェスという、その名の通り多様性について考えるフェスの運営に大きく携わっていて、そのフェスで掲げられている理念に大也は納得いっていないのである。自分の想像に収まるだけの「多様性」だけを礼賛するスタイルに、大也は怒っているのである。

 

 大也の主張はともかくも、昨今の軽々しく使われている「多様性」という言葉の範囲は恐ろしく狭いと思う。LGBTQ、外国にルーツを持つ人、障がいをもつ人……。そういった人たちぐらいしか想定されていない。

 世の中には自分の常識から恐ろしく乖離した考えをもつ人もいるし、有名ではない特殊な障がいをもっている人もいるし、日本の常識では考えられないような外国ならではの常識をもっている人もいるし、そういった人たち全員を余すことなく受け入れるというのは正直かなり難しい。言ってはいけない言葉かもしれないが、そういった人たちを受け入れるのは「しんどい」。

 

 多様性にまつわる話で危惧すべき点が一つある。

 それは「多様性」の一人歩きである。

 多様性という言葉の定義はけっこうあやふやである。そのため、「早起きができないこと」や「就職しない自由を支持すること」や「正義のための暴力を肯定すること」などの事象も受け入れることも「多様性を認める」行為だと捉えることだって可能である。

 そうなると「多様性」は個人のわがままを貫き通すための便利アイテムになってしまう。

 

 多様性には限界があるのだ。

 

 だから、「多様性を受け入れる」のではなく「多様性を知る」くらいがちょうどいいのじゃないかと思う。

 心の根本から、性的マイノリティやら性癖やらに理解を示すのは難しいと思う。だったら「こういった考えの人もいる」「こういった価値観をもっている人もいる」「こういった障がいがある」といった、そういった知識を身につけるぐらいで十分であると思う。

 

 ―――

 

 最後に『正欲』の冒頭文を引用する。

 

 

だけど、私は少しずつ気付いていきました。一見独立しているように見えていたメッセージは、そうではなかったということに。世の中に溢れている情報はほぼすべて、小さな河川が合流を繰り返しながら大きな海を成すように、この世界全体がいつの間にか設定している大きなゴールへと収斂されていくことに。  

 その〝大きなゴール〟というものを端的に表現すると、「明日死なないこと」です。  

 目に入ってくる情報のほとんどは、最終的にはそのゴールに辿り着くための足場です。語学を習得し能力を上げることは人間関係の拡張や収入の向上に繫がります。健康になることはまさに明日死なないことに繫がります。他にも、人との出会いや異性との関係の向上を促すもの、節約を促すもの……その全ては、「明日死なないこと」という海に成る前の河川です。私たちはいつしか、この街には、明日(歌詞みたいに、「みらい」と読み仮名がふられているイメージの明日、です)死にたくない人たちのために必要な情報が細かく分裂して散らばっていたのだと気づかされます。  

 それはつまり、この世界が、【誰もが「明日、死にたくない」と感じている】という大前提のもとに成り立っていると思われている、ということでもあります。  

(中略)

 また、この数年の間に、幸せには色んな形があるよね、という風潮も強まってきました。家庭や子どもを持たない人生。結婚ではなく事実婚同性婚、ポリアモリーアセクシャルノンセクシャル、三人以上またはひとりで生きることを選ぶ人生。多様性という言葉が市民権を得て、人それぞれの歓びを堂々と表明し、認め合う流れが定着しつつあります。ゴールはそれぞれだよね、時代は変わったよね、昔と今は違うよね、常識や価値観は変わったよね。高らかにそう宣言するような情報に触れる機会がぐっと増えました。  この文章を読んでいるということは、あなたもこう思っていると思います。  

 うるせえ黙れ、と。  

 多様性、という言葉が生んだものの一つに、おめでたさ、があると感じています。  

 自分と違う存在を認めよう。他人と違う自分でも胸を張ろう。自分らしさに対して堂々としていよう。生まれ持ったものでジャッジされるなんておかしい。  

 清々しいほどのおめでたさでキラキラしている言葉です。これらは結局、マイノリティの中のマジョリティにしか当てはまらない言葉であり、話者が想像しうる〝自分と違う〟にしか向けられていない言葉です。  

 想像を絶するほど理解しがたい、直視できないほど嫌悪感を抱き距離を置きたいと感じるものには、しっかり蓋をする。そんな人たちがよく使う言葉たちです。

 

 昨今の多様性ブームがあまりに浅慮であることを揶揄しているのは前述したとおりだ。

 それ以外に、引用文の前半に瞠目させられた。

 勉強することも、ご飯を食べることも、働くことも、とにかく「明日死なないこと」を前提とした動きであるということ。特に勉強なんか顕著な例で、一朝一夕で成果のあらわれるものではなく、将来を見据えてするものである。未来を生きることを前提とした行為なのだ。

 この社会は「明日死なないこと」を前提につくられ、じゃあ、「明日、死ぬ」といった希死念慮の強い人たちはそんな社会でどう生きられるのか?

 その答えは『正欲』の中にあった。

 人とのつながり、なのである。

 とはいえ、かなり限定的なつながりだ。

 同じ(マイナーな)悩みを共有している隣人とのつながりだ。

 彼らの悩みの根幹が他人から忌避される特殊性癖によるものであるため、世間からは迎合されない存在であることに彼らは暗澹たる思いを抱えている。

 そこに多様性社会の破綻が見出される。

 

 とにもかくにも、『正欲』は深遠なテーマを横に大きく据えていて、現代社会を抉り取っている、えぐい小説だ。正直、読んできた小説の中でいちばん衝撃を受けたといっても過言ではない。

 

 

正欲

正欲

Amazon