それぞれの空間
本を読みすぎると、いけない。
たしかに、本を読むことで、筆者の主張をそのまま自分に内面化するのはよくないと思う。
すべての筆者の意見に対して従っているようでは、自分の根幹部分を揺るがされてしまう。
しかし、ときたまに自分の意見を代弁してくれるような、もやもやしていた思いを言語化してくれるような文章に出会うことがある。
朝井リョウの『スター』という小説で、千紗という登場人物がこんなことを言っていた。
「だから、自分がいない空間に対して『それは違う』、『それはおかしい』って指摘する資格は誰にもないんだよね。何か言いたくなる気持ちはすっごくわかるんだけどさ、全部、自分がいる空間とは違うルールで成立しているんだもん。たとえ自分はそのジャンルの頂点を知っているんだからって思っても、それが本当に頂点だとしても、頂点の場所にある一つの点だけを知ってるにすぎない」
「誰かにとっての質と価値は、もう、その人以外には判断できないんだよ。それがそれだけ、自分にとって認められないものだとしても」
一つ目の「全部、自分がいる空間とは違うルールで成立しているんだもん」という部分。
よく昔、大人たちから「人の嫌がることは辞めましょう」みたいなことを言われたが、そもそも「人の嫌がること」の定義というのは人によって異なるものだ。
教師生活の中で、荒れたクラスで授業をしているときに、生徒に「まじめに授業を受けたい人がいるんだから静かにしなさい」といったことを言ったことがあった。そのあとに、騒がずにまじめに授業を受けている生徒から「うるさい方が集中できる」といったことを言われた。正直、その考えは自分にはないものだった。だから、その子にとって、まじめに授業を受けるのにふさわしい環境は「静かなところ」ではなく「騒がしいところ」であるのだという。
自分がいる空間と、他者がいる空間。
それぞれにある価値観とか考え方は別々のもので、それぞれは矛盾し合うものではないのかもしれない。
どれだけ相手の価値観が気に食わなくても、相手にとってはその価値観が真実であるのだ。
それくらいに自分にとっての真実というのは曖昧なものなのだろう。
だから、自分の考え方と相手の考え方を比べるなんて作業はまったくもって意味がないものなのだ。
それぞれの考え方は衝突し合うものではない。
そもそも座標が異なるのだから。
だから、相手の考え方を糾弾する行為も何の意味もない。自分の考え方とは違うことに怒っても何にもならない。
人はいろんな価値観、考え方を持っている。だから、それぞれの価値観、考え方を認めてきましょう、といったムーブメントもある。
結婚をしないという考え方、月に10万円くらいで生きるという考え方、トー横キッズたちの価値観、生まれない方が幸せだったとする「反出生主義」。
しかし、すべての価値観や考え方を認めるのは難しい。
だから、認めるというか、「知る」ぐらいがちょうどいいのかもしれない。
そういった考え方をしている人がいるという事実を知る。
別に相手の考え方が「正解」ではないのだから、わざわざ自分の価値観にその相手の価値観を入れ込む必要はない。また、相手に自分の価値観を押し付けるようなことをする必要もない。
そういう考え方もあるのか、へぇー、くらいでいい。
自分の空間と相手の空間は違うルールで成立している。
そもそも人のもっている価値は誰かが判断できるものではない。
そのことを頭に入れておけば、理解できない考え方に対峙してもわざわざ感情的にならなくても済むのかもしれない。