興味関心を持つべきである

 本題に入る前に少しだけ政治について。

 あまりそういった話題はしたくないのだが、少しさせていただく。ただ、私は右派でも左派でもないということを念頭に置いていただきたい。右派的なところもあれば左派的なところもある、と言えばいいのか、そもそも私自身右派左派とかよく判っていないし判ろうともしない。政治ごとには興味を持たなければならないと思っているが、政治に「いいところ」もあれば「批判すべきところ(悪いところ)」もあるのだから、それさえきちんと理解していれば、右派がどうとか左派がどうとか、そんなカテゴライズはもはや不要ではないかと思うのである。むしろ国民は誰しも右派左派どちらかに分かれているといった偏見的な見方がなされているから、政治に対して正当な判断が下せないのではないか。○○党は右派だから彼らの政治はいい/悪いとか、一定の見方しかできなくなっているのではないか。「中庸」という言葉がある。その言葉の通り、その時々の物ごとを判断するうえでどちらにも偏ることのないようにしていくべきであると私は思う。ただ、儒教における「中庸」(「中庸の徳」と呼ばれる)は聖人でも難しいとされる。だが、その反面、学問を修めた者以外にも、誰にでも発揮できるものであるとされている。人はみな何かしらの固定観念を持っていて、それが無意識に自分を縛っているものだから、その固定観念の存在すら気付いていないのかもしれない。……だから、多くの人と出会ったり、多くの書物を読むことは大切なんだろう。

 

 今回は別に偏見を持つなと言った類の話ではない。

 私は「関心を持つこと」の重要さについて述べていきたい。

 裏を返せば、「無関心でいること」の危機を同時に説くわけだ。

 そもそも関心とは、何に対する関心か。

 私は別にこれといったジャンルを規定しているわけではない。何でもいい。文学、美術、クラシック、ネイル、株、経済、IT、難民、電車、観光スポットなどなど……。

 私は「文学」や「お笑い」、「人の生き方」、「テニス」といったものに興味を持っている。文学に興味を持っているのは、美しい文章への憧れているといったことや、作品のテーマが直截的ではなく文章の奥に隠されていてそれを読者が拾い上げて感嘆するといった流れがとても好きだといったこと(複雑な迷路から脱け出した後のような快感を覚える)が理由だ。「お笑い」は、自分が悩んでいるときにその悩みを吹き飛ばしてくれるから好きなのだ。「文学」と「お笑い」は自分を充たしてくれるもの(娯楽的なもの)であり、こういうのはいわば人によって感じ方は異なるものである。

 では、「人の生き方」に興味があるのはなぜか。私が人生に悩んでいたとき、芸能人や作家などの著名人をウィキペディアで彼らの略歴を見るようになったのが、それが興味を持つきっかけだった。いろんな人の人生を見て「人生いろいろ」を知りたかったのだ。実際、見てどうだったかと言うと、華々しい道を歩んでいる人もいれば、紆余曲折を経て成功した人もいるといったことに気付いた。それからいろんな人のエッセーを買ったりした。芸人だとオードリー若林、ハライチ岩井、千原ジュニアピース又吉……文化人だと村上春樹村上龍内田樹中村文則橋本治……。「テニス」に興味を持っているのは単に自分がテニスをやっていたからだ。「人の生き方」、「テニス」に興味を持っているのは、どちらも「自分に関わること」だからだ(「文学」もある意味、自分の感情と登場人物の感情が合致し共感したり、架空上の存在の彼らの生き方から人生を学ぶといったこともあるが、私は「文学」はあくまでフィクションとして見ているため、自分と照らし合わせることはあまりない)。つまり、「自分に関わること」に興味を持つのはいわば当たり前なのだ。裏を返せば「自分に関わりのないもの」に対しては無関心なのだ。

 

 長くなったが、実はここからが一番書きたいところなのだ。

 私たちは興味関心の幅を広げるべきなのだ。

 自分の人生に関わりのないものをすべて切り捨てていくスタイルはいつの日か自分を苦しめるときが来るのではないか。

 そういうと脅し文句みたいだが、私自身の経験談から導かれた結論なのだ。

 私は「漫画」と「テニス」が大好きな少年で、他のジャンルには見向きもしなかった。今でこそ野球は好きだが、昔はそうでもなかったし、小説なんて読む気にもならなかった(活字嫌いを自慢していた時代があったくらいで、本当にクソだ)。やがて「野球」、「ゲーム」といったものにハマるも、言ってしまえばそれらは「娯楽」であって「自分に関わるもの」ではない。

 で、どうなったか?

 自分に関わることが「漫画」、「テニス」、「野球」、「ゲーム」となった。手持ちの札はその四つで、果たして自分がどういう職に就きたいか尋ねられて、どう答えることができようか。

 画力がないので漫画家にはなれない、「野球」は観る専門だし、ゲーム製作会社に勤めようとも文系なので機械関係は門外漢(そもそも機械関係に興味を持ってなかった)だから無理、こんなふうに無理無理言ったらできるもんもできなくなる、と思われそうだが、実際漫画家になろうという気もゲーム会社に勤める気もいっさいなかったので、就職の選択肢にそれらは初めからなかったのだ。

 さて、バイトを始めようとなって私はテニスコーチになったのだが、その理由はテニスが「自分に関わるもの」だったからだ。そして、教師になったのは「勉強」がそこまで嫌いじゃなかったし、というのが理由なのだが、今考えれば、学生時代に「一番関わりの深いもの」が「勉強」だったからなのだ。

 今でこそいろんな本を読んで、いろんな動画を見て、いろんな世界を知っているが(「百聞は一見に如かず」は禁句)、もし学生時代、いろんな世界を知っていたら、生き方は変わっていただろうと思った。

 例えば、最近だと安宅和人『シン・ニホン AI×データ時代における日本の再生と人材育成』(NersPicksパブリッシング/2020年)という書が売れていて、気にはなっていたが手元になかったのだが、ちょうどオリエンタルラジオ中田敦彦YouTubeで紹介していたのを知って見てみると、なかなか興味深い内容で驚いた。内容は現在新産業革命時代の真っ最中、日本の希望は外国の企業に追い抜かれているが、意識改革や予算配分の変革をしていけばいい方向に進むことができるといったものだ。日本の未来を嘆く人たちが雨後の筍のごとくたくさん湧いてくる現在、こういった希望の書もちゃんと存在しているんだなと思った。これを見る限り、意識改革は企業の問題、予算配分は政府の問題(社会保障、医療費に比重が置かれていて、教育、研究費にはあまり割かれていないといった問題があり、そういった側面から考えると、今の日本は「高齢者」崇拝、「若者」蔑視の構造ができあがっているわけだ)であって、若者がこういったことに目を向けることで日本はよりよい方向へ進むことができるかもしれないと思われる。

 私は学生時代、刹那的な考えを持って過ごしてきた。また、典型的なアパシーで、友だちとの会話の中で政治的な話などいっさい出てこなかった。

 では、もし私が当時「日本はこのままではヤバい。早く方向転換しなくちゃいけない」という危機的状況を知っていたら、どう行動しただろうか。

 正直なところ判らない。

 多分だが、口先だけ「ヤバい」「ヤバい」言って、公務員である教師を志望しただろう。結局、今と変わらない。

 では、当時飲食店で働いていたら、経済学部に入っていたら、留学していたら、いろんな資格の勉強をしていたら、私は飲食店で働いたことも経済を勉強したことも留学をしたことも資格をとったこともない。がらんどうな存在。今思えば恐ろしいほどからっぽな人間だ。私の興味関心のベクトルが娯楽と「自分に関わるもの」である「テニス」のみ(当時は「人の生き方」に興味はなかった)だった。さっき挙げた「イフ」の自分がもし存在すれば、きっとその私の興味関心のベクトルはかなり違っていたことだろう。経験が自分を変えていただろう。

 最近、高学歴ニートが問題化されているが、そのほとんどの理由が「自分に関わるもの」が「勉強」しかないからではないか、と思っている。受験勉強を頑張ってきたが、それで燃えつきてしまって、気が付けば今まで蓄積してきた「勉強」しか興味を持てるものがなくなっていた。そういった意味でも「教育」は変わらなくてはいけないと思う(変わろうという動きはある)。キャリア教育の充実(キャリアパスポートの作成は教師からすればかなり負担がかかるが)、主体性を伴った活動(内気な生徒への対応が難しい)の充実、そういったふうに新学習指導要領は予測困難な時代を生きる子どもたちが生き抜くためのスキルを育成することが目指している。『シン・ニホン』では新産業革命時代を勝つために「妄想力」も重要になってくるとあった(てか、動画で見た(エビデンスが弱いのは承知の上))。これから重要になってくるのは予測困難な社会の中で、人々が必要としているものをつくりあげていくことであり、そのためには豊かな創造性が求められるのである。そういったゴールラインを見据えた教育がこれから必要となっていき、そういったことを生徒に理解させることも教師の役目になってくる。従来の受験勉強だけを乗り越えるといった授業では、もはや塾・予備校だけで十分だ。学校教育は生徒の興味関心を社会に向けさせていかなければならない。

 今の子どもたちはこれからの社会をどう思っているのだろうか。

 私の学生時代のように何も考えていないのか、憂いているのか、どうなんだろう。少なくとも「いい日本になっている」と考えているのは少数派だろう。「ニッポンの未来はwow wow wow wow 世界が羨む yeah yeah yeah yeah」と高らかに歌い上げられるような時代ではない。

 だが、その悲観的なムードもみんなの意識を変えるだけで、かなり変わってくると思う。意識改革。いきなり社会を知れ、というのは困難かもしれない。だが、今の時代、本やインターネットなど調べごとをするのは十分すぎるくらい環境が整っている。そこから、興味関心の幅を大きく広げられると思う。

 例えば、前に挙げた中田敦彦さんのYouTube大学、テレビを捨てYouTubeに逃げたと揶揄している人がいるということ、宗教みたいだと言う人がいるということ、あと専門家に間違いを指摘されたということ、そういったことはあるが、私は興味関心の「扉」を少し開くといった意味で非常にいいチャンネルだなと思っている。実際、私は『シン・ニホン』の解説動画を見て、日本の抱える問題にかなり興味を持った。

 あと、齋藤孝氏がよく言うことだが「読書はすべきである」といったことだろうか。(「書物を考える」の方のブログでいつか齋藤孝『読書力』についての思考のアウトプットをしたいなと思う。)あらゆる書が世界に溢れているが、まずどこから手をつければいいのか判らないだろうから、私が勧めるのは「国語の教科書」を真面目に読むというやり方である。教科書にはいろんな評論文が掲載されている。たとえば「クジラの飲み水」で「へえー、鯨ってプランクトンを食べるんだ」と驚きを伴った理解を得ると、そこでおしまいではなく、海洋学者になりたいとまではいかないが、そういった領域に興味を持ち始められたらすごくいいと思う。理科系、社会系、言語系といろいろなジャンルの評論文があるが、「読むのがめんどうくさい」ではなく「新しい〈知識〉を得られる!!」と喜べる段階に来たら、後は自動的にその子は主体的な人間になるだろう。そのために興味関心は必要。

 

「私」に内在する「興味関心」。その「興味関心」が「とあるジャンル」に結び付く(それが文学でもスポーツでもいい)、そしてその「とあるジャンル」が「社会」と結び付く。そうすると「私」と「社会」は結び付く。そうすることで、「私」はこれから生きる未来の社会に目を向けることができる。

 つまり、私が一番言いたいことは、興味関心の幅を広げ、社会に目を向けてみる必要があるということなのだ。そのことに気付くのに早すぎることはない。そして興味関心があるものに多すぎることはない。興味あるもの、関心ごとが多ければ多いほど、それだけ将来の選択肢はあるはずだから。

 教師としてこういうことを伝えられたらなあと思う。読書はほんとに必要だ(だから、新学習指導要領にある契約書を読むだけの授業なんかじゃなく、もっといろんな文を読む授業がしたい。新学習指導要領は首肯できる点もあれば否定したくなるところもある/こんなふうに冒頭でも述べた通りに私は中庸の立場をとりたい。)

「自分に関わるもの」が「勉強」だけで、社会にまったく目を向けることなかった愚かな私にできることはそれくらいのものだろう。反面教師だ。

 

 私は昔、意識高い系と呼ばれる人たちが苦手だったが、ここ最近になって彼らを尊敬のまなざしでみるようになった。彼らはいわば漫画でいうところのサクセスストーリーを築き上げる王道の主人公で、それに悪態をつくのは主人公の勇姿をより際立たせるための敵キャラクターなんだろうな。朝井リョウ『何者』を見たらそれがすごく判るよ。

 

 来世はもっといっぱいいろんなことを知って、いろんなことに興味を持てたらいいな。

 

 とまあ、来世に期待するのは末期。

 

 自分が何もやって来なかった過去の自分がすべて悪いのだ。

 

 過去の犯した罪は一生拭えないのと同じく、自分の失敗した過去は取り消すことはできない。だから、今自分ができることは過去を取り消すことではなく、それを受け入れ、そこからどう歩んでいくか。

 私がこうやっていろいろ考えるようになったのはある意味、そういった過去があるからかもしれない。

 そう、ポジティブに。

 

 

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  • 発売日: 2002/09/20
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