内田樹『そのうちなんとかなるだろう』

 私は内田樹さんについてあまり知らなかった。

 「あまり」ということから、「少し」は知っていたということなのだが、そうはいっても、内田さんの文章が阪大の試験に出た(『街場の戦争論』)とか高校で内田さんが講演しに来てくれたとかそれくらいで、内田樹の著書を何か読んだことがあったわけではない。
 今回、私が読んだのは『そのうちなんとかなるだろう』という本で、内田さんの自叙伝みたいなものだ。内田さんの生き方とともに、読者である私が、そこからいろんなことを学び取らせていただいた。

 だからといって、内田さんが小学生時代いじめに遭い、登校拒否をした話とか、受験勉強が嫌で高校を中退した話、8年間32大学の教員公募に不合格した話とかしても仕方がないので、私が感銘を受けた部分を引用しつつ、私の考えを書いていくというスタンスを取りたい。

第二章 場当たり人生、いよいよ始まる
 
「研究者が陥るジレンマ」より

 オリジナルな領域を研究していることの問題点は「格付け」が難しいということです。
 同じ領域にも多数の研究者がいて、論文がたくさん書かれていれば、「どの程度の出来か」ということは比較考量できます。
 でも、日本で反ユダヤ主義について専門的に研究している人というのは、ほんとうに少数でした。

 査定というのは同一領域での論文のサンプル数が多ければ多いほど精度が増すわけですけれど、「そんなことを研究しているのは、日本で一人だけ」ということになると客観評価のしようがない。

 

 研究を本分としている人の苦悩だ。
 研究者が若手ならば、「オリジナルな知見」よりも「どれほど勉強していたか」といったほうに軸足が置かれるらしいのだ。その研究がいかに独創的であっても、「意味不明」だったり、「その分野では誰でも知っているような凡庸な知見を語っている」場合があるのだ。どれくらいのレベルの研究者であるか見極めるためには、どうやらポピュラーな分野で、どこまで切り詰めたかという労力の方が大事にされるみたいだ。
 なるほど、教室でひとつの課題を与えられ、その課題を見事解決できた人を評価するといった感じだろう。教師も評価をつけやすい。だが、課題が「何でもいいので論じてみよ」とか出した場合、教師はその採点に困る。

「人間は基本的に頭がよい」より

 勉学は自学自習なんです。
 脳は本質的に活動が好きですから、使い方を覚えれば、高速で回り出す。

 人間は学ぶことをほんとうは願っている。教師がするのは「学びのスイッチ」を入れるだけのことです。
 何がきっかけになって、学びが起動するのか、それは予測できません。誰にでも同じ教育法が効果をもたらすということでもありません。
 でも、何らかきっかけで「学びのスイッチ」がオンになって、猛然と勉強を始める学生たちをこれまで何人も見てきました。

 「学び」は本来能動的に行うべきものなのだろう。
 新学習指導要領では「『主体的・対話的で深い学び』の実現に向けた授業改善の推進が基本方針に組み込まれている。子どもたちが、学習内容を人生や社会の在り方と連関させたり、これからの時代に求められる資質・能力を身につけ、生涯にわたって能動的に学び続けることができるよう、学習の質を高めるための授業をしていく必要がある」といったあくまで「子ども主体」の授業を展開することを文科省は求めているのだ。「学び」の主体は「子ども」、サポート役として「教師」がいる。従来は「教師」が「子ども」に「学び」を「教える」というどうも封建制を彷彿させるような堅苦しいやり方だったが、「子ども」が自ら学びに向かうためのサポートとして教師がいる、という認識下に授業が行われる必要があるそうだ。
 昔、「やる気スイッチ」のCMが話題になっていたが、それと同じく、教師が生徒の「学びのスイッチ」を探し、押してやる。そのために生徒が学びを楽しいと思ってくれる必要があるのだけど、そのために「授業」の「眠くなるもの」、「面白くないもの」、「座っているだけ」といったマイナスイメージを払拭し、「楽しいもの」、「いっぱい発言できる場」といったイメージに変えていく必要があるのだろう。そのイメージの変容はかなり長期的なものになりそうだが。

「空き時間は天からの贈り物」より
 

 あらゆる仕事には、「誰の分担でもないけれど、誰かがしなければいけない仕事」というものが必ず発生します。誰の分担でもないのだから、やらずに済ますことはできます。でも、誰もそれを引き受けないと、いずれ取り返しのつかないことになる。そういう場合は、「これは本当は誰がやるべき仕事なんだ」ということについて厳密な議論をするよりは、誰かが「あ、オレがやっときます」と言って、さっさと済ませてしまえば、何も面倒なことは起こらない。

 

 相手に期待せず、押しつけず、全部自分でやる。だから、相手がしてくれたら「ああ、ありがたい」と感謝する気持ちになれる。

 内田さんは捉え方を変えることで気持ちが変わると言っている。
 実際、内田さんが管理職に就いたとき、「研究が本務で、学務は雑務」だと思うとストレスを感じるが、「学務が本務で、研究は余技」だと思うことにすると、たまに訪れる「余技が発揮できる時間」がたいへんありがたいものに思われるそうだ。
 教師もそうなのかなと思い、当てはめてみる。
「校務分掌が本務で、授業は余技」(私は授業をしたい欲がある)
 そう考えれば、たまに訪れる(たまに、レベルではない)授業が有難い時間になる……のかな? 
 
 あと、「相手に期待せず、押しつけず、全部自分でやる」というのは、自己アピールにもつながるし、もし仮にその仕事を誰かが代わりにやってくれたとしたら、それはそれは「え? いいの?」と有難さに変わるし、どちらを進んでもハッピーエンドになるし、そういった「自分からする」という選択肢は積極的に選んでいくべきだなと思った。それでこちらが損することがあるかもしれないが、これでひとつの勉強になったと思うか……なんかポジティブシンキングをせよ、みたいに捉えちゃったけどいいかな?

第3章 生きていくのに、一番大切な能力

「人の話からアイデアが生まれる」より

 僕だっていつもの話を繰り返すより、これまで聞いたことのない相手の話に反応して、「これまで一度もしたことのない話、これまで脳裏に一度も浮かんだことのないアイデア」を語るほうが楽しい。

 

 今思いついたばかりのアイデアは内田さんいわく「泡立てたばかりのホイップクリームのようなもの」と述べています。対談の際に、そういったアイデアが脳裏に浮かぶそうです。確かに人と話していると、文字だけ見ていたらきっと思い浮かばなかっただろうな、と思うようなことをふいに思いつくことがあるが、そういうことなんだろうか。ある意味、それって自分の深層心理に基づく確かなアイデアで、自分の中の主義主張と矛盾することない「純なアイデア」なのかもしれない。

 その人の一番いいところを見る
 どうすれば、クリエイターの質が上がるかというと、これはもう「いいところをほめる」しかないわけです。ほんとに。
     (中略)
 作品について「この辺がダメだ」と辛辣に指摘すれば必ず次の作品がよいものになるというのなら、僕だって寸暇を惜しんでダメ出ししますよ。
 でも、人間はそういう生きものじゃありません。
 人に質の高いものを生み出してほしいと思ったら、いいところを探し出して、「これ、最高ですね」「ここが、僕は大好きです」と伝えたほうがいいに決まっている。

 

 たとえ批判が的を射ているような内容でも、批判された側は意気軒高に次の仕事に取り組むかと言われれば、そうはならないわけだ。内田さんは才能のある人の魅力さはある種の「無防備さ」と不可分だからと述べている。傷を抉れば、この「無防備さ」はもう回復しない、と。
 偏見だが、年老いた人は「打たれ強く生きろ」といったことを口を揃えて言っているイメージなので、七十歳近くの内田さんがそんなふうに述べているのはけっこう驚きだった。説教ばかりしたところで、その人の成長の糧にはならないということで、そういったことはよく言われる。若者側が「もっと褒めろ」と直接的なことを言わないにしても「あんなに怒鳴るなよ」と説教を好意的に捉えることはあまりないといった印象だ。だが、実際にそうなのかもしれない。まあ、私も批判されれば精神的に来るものがある。批判されるよりも褒められたい。

 才能はそこに「ある」というより、そこで「生まれる」んです。

 そういった才能の芽を踏みにじるような批判はやめにして、水を与える(褒める)ことが大切なのではないか、と内田さんは言っている。私は当然賛成だ。これは私が褒められる側でいたいという利己的な願望である。私が「褒める」側に立たなければいけないということも自覚すべきだな。

「いつどこに自分がいるべきか」より

 トラブルというのは、いなくてもいいときに、いなくてもいいところにいるせいで起きるものです

 不要不急が謳われている中、ちょっとした外出で、コロナを発症し、ニュースになる。「なぜ外出したんだ?」と叩かれる。怖いな。
 まあ、でも、不要不急の外出はトラブルを呼ぶものなのかもしれない。
 緊急事態宣言が解除されても、そのことを胸に。

「「人生をリセットする」前に」より

 人生を変えたいと願って、清水の舞台から飛び降りる気持ちで、あてのない放浪の旅に出たり、カルト宗教に入ったり、怪しげな健康法を実践したりという人がいます。
 気持ちはわかりますけれど、「人生をリセットする」というのは、あまりよいことのように思えません。
 というのは、それは「どこかでリセットしないとどうにもならないような生き方」をそれまでしていたということだからです。それもたぶんずいぶん前に「このままではろくなことにならない」と気がついていながら、何も手を打たずに来た。「このままゆくと、ろくなことにならないな」と気がついたときにすぐに生き方を改めたなら、「清水の舞台から飛び降りる」ほどの決断は要さなかったでしょう。

 

 辛辣な言い方かもしれないが正鵠を射た内容ではないかと思う。
 刹那的なその場しのぎのような生き方をしている人間への皮肉のようなものだ。だが著書名の「そのうちなんとかなるだろう」という人生を楽観視するようなタイトルと、この厳しい論はかみ合わないような気がするが、考えてみれば内田さんは波乱な人生を歩んでいるとはいえ、頭脳明晰であったから「なんとかなった」わけで、学力もなければほかに特出したものを持ち合わせていない人間は「そのうちなんとかなるだろう」とか思っていたら、気がつけば道端で野垂れ死ぬみたいなことはありそうだ。
 タイトルについては、少々ツッコミたいが、「人生をリセットしたい」と叫ばなくてもいいような人生を歩むのが理想だというのは首肯できる。私は「人生をやり直したい」とか「来世に期待大」とかよく心の中で口走るが、これはつまり私の刹那的な生き方が招いたことだ。
「ご利用は計画的に」という消費者金融のCMの注意喚起文ではないが、「人生設計は計画的に」って感じで、将来の自分を苦しませることのないような生き方を若い間にしてもらいたい、と私は丸投げをする。自分のターンは諦めた。ただ、「人生やり直したい」とか言っても何も始まらないし、他人を不快にさせるだけなので、それを禁句として、逆に「人生やり直したくない」と言えるくらいの楽しさを見出していくのをこれからの目標としていこうと思う。

「後悔は2種類ある」より

 

 後悔には2種類あります。「何かをしてしまった後悔」と「何かをしなかった後悔」です。

 

 こんなこと言われなくても判っているよと言いたくなるくらいに知れ渡ったことだろう。「やらずに後悔よりやって後悔」みたいなことはよく言われたものだ。
 ただ、私が感銘を受けたのは、内田さんの「何かをしなかった後悔には後悔する主体がいないから、打つ手がないんだ」と述べているところだ。
 

 「あのとき、ああしておけばよかった」と思うのは「あのときああしていた自分」が「本当の自分」だと思っているということです。でも、今の自分は「あのときあれをしなかった自分」です。だから、論理的に言うと、今の自分は「本当の自分」じゃないとこいうことになる。「オレは本当はこんなところにいて、こんなことをしているはずじゃない」と思っている「仮の自分」です。
 そういう人はその失敗を糧にすることもできないし、それを通じて人格陶冶をすることもできません。
 だって、今「あれをしておけばよかった」と思って悔やんでいるのは本当の自分じゃない「誰か」だからです。「ああ、うんざりするぜ」という「うんざり感」だけが空中に浮遊していて、「うんざりしている主体」が存在しない。笑いだけが残って姿を消すチェシャ猫みたいなものです。後悔だけがあって、「こんな失敗を二度と繰り返すまい」と思っている人間がいない。


 何度も言われてきた諫言だが、「やって後悔した方が何となくいいじゃん」みたいな感覚的に訴えかけるよりも「後悔している主体がいない」という万人に伝わる理論ではないが、「なるほど」と唸らせてくれる。アイデンティティー問題まで発展させ、自身の危うさを再認識させてくれるような、そんな諫言のようにも聞こえるし、なるほど、世に溢れる諫言のすべてが「はいはい、またそれね」っていうスタンスであっても調理の仕方次第で新鮮味を与えるものになるのかもしれない。もちろん、内田さんはそういったことを感じ取らせるためにこのチャプターを書いたわけではないだろうが、私はそう思った。

 

 生き方を学び取らさせていただきました。

 

 

そのうちなんとかなるだろう

そのうちなんとかなるだろう

  • 作者:内田樹
  • 発売日: 2019/07/11
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)