努力の方向性

 

 目的・手段

 

 目的は、実現して目指そうとしていることがら。

 手段は、目的を達するために必要な方法。

 

 例えば、「○○大学に合格したい!」と思っている子がいるとする。

 その子の目的は「○○大学に合格すること」で、手段は「毎日、○時間勉強すること」といったものです。

 「手段の目的化」という言葉がある。

 受験勉強の最中、目的が「○○大学に合格すること」だったのに、いつの間にかそれが「毎日、○時間勉強すること」にすり替わっていなかっただろうか?

 そう問いを投げかけている私はそうなっていた。

 浪人時代、勉強することが目的化していて、肝心の「○○大学に合格したい」という明確な目的は見えてなかった。(だから、模試で第一志望は毎回変更していた)

 最近、私は自己啓発本を読んでいる。

 何のために?

 自分を変えるために。

 それが目的である。

 だが、私は「自己啓発本を読むこと」が目的化してしまわないか恐れている。

 このブログだってそうだ。

 目的は「思考のアウトプット」であり、「自分の考えを整理する」ためだ。

 文章を書くのが好きだからといって、「思考のインプット」を疎かにして、何も考えずに適当に書くようになったら、本来の目的はどこへ行った? って感じになってしまう。

 

 このブログのタイトルは「努力の方向性」とした。

 私は浪人時代、勉強をいっぱいした。

 だが、いっぱいしただけだった。

 参考書をいっぱい買って、授業をいっぱいとって、模試をいっぱい受けて……。

 勉強することが「目的化」し、「○○大学に合格したい」という思いはそこに内在していなかった。

 これだけ勉強したのだから報われるだろう、と思っていた。

 

 そもそも、勉強という作業の最終目標は「受験で勝つ」ためだろうか?

 それこそ「手段と目的」の倒錯なのではないか?

 本来、勉強(学び)とは自分のために行うためである。自己研鑽が受験のツールに利用された結果、「受験戦争」という物騒な言葉が誕生してしまったのだ。

 そう考えると、「学歴」なんてものも結局は「手段」に過ぎず、意味もなく「東大の文系」を選んだ人と「○○大経済学部」を意図して選んだ人では、後者の方が「目的」の見えていた人で、そちらの方が優れていると言えるだろう。

 と、現在の受験制度・学歴社会を根本から疑問視すると白眼視されるのでやめておこう。

 

 途中、脱線したが、まとめる。

 

「手段」はあくまで「手段」で、「目的」はあくまで「目的」だ。

 

 これに尽きる。

 だから、意味もなく「TOIEC」やらなきゃとか「簿記検定」受けなきゃじゃなくて、「何のために?」と立ち止まって考えるべきなのだ。

 目的が見えないまま作業を行ってしまうと、「破滅に向かう」と思う。

「何でこんなことをしているのだろう?」という感情が芽生えたのならそれはよいことだ。なぜなら、すぐにでも「目的」を見つめ直すことができるから。

 でも、「これだけ努力しているんだから報われるだろう」と、それなりの「苦」を伴った作業をしたので大きな満足感を得るが、実際その努力の方向性はまったく異なっていて、そのことに気付かないでいる状態、それが一番恐ろしいのだ。時間だけが浪費され、身についたものは虚像の満足感のみ。恐ろしいことだ。

 

 正しい努力を。

 努力が報われるためにも。