平田オリザ『22世紀を見る君たちへ これからを生きるための「練習問題」』

 本書『22世紀を見る君たちへ』は、そのタイトルに惹かれたのだが、内容のほとんどが「大学入試」についてだった。

 

 うーん、思った内容とはちょっと違っていたが、収穫もあった。

 

 

 

1.生徒の本質をつかむ試験

 

 筆者の平田オリザ四国学院大学客員教授だ。

 四国学院大学は指定校推薦を対象に面白い入試問題を用意している。

 その内容については以下のようなものだ。

 

 以下の題材で、ディスカッションドラマを創りなさい。

 

 二〇三〇年、日本の財政状況はさらに悪化し、ついに債務不履行(デフォルト)を宣言する直前まで進みました。日本国政府国際通貨基金IMF)からの支援を受け入れることとなり、その条件として厳しい財政健全化策をとることとなる。

 国際通貨基金からの要請の一つに、多大な維持費がかかる本四架橋のうち二本を廃止し、一本だけを残すという提案がありました。

 関係各県を代表して、どの橋を残すかを議論するディスカッションドラマを創りなさい。登場する県は、香川県徳島県愛媛県兵庫県岡山県広島県になります(六人の班の場合は、県を一つ減らしてください)。他に議長役を一人登場させてください。

 各県の代表は自分の県に関係する橋を残すための意見を主張するとともに、他の県、他の橋について的確な攻撃を加えてください。その攻撃に対して、さらに反論を考えてください。また議論の最中に、妥協案を提案する県や、態度を変更する県があってもかまいません。

 最後に結論を出す必要はありません。

 誰が、どのタイミングで発言すると面白くなるかをよく考えて、発言の順番を決めてください。

 発表の時間は、八分から十五分としてください。発表の際には、部屋にある画用紙を使って名札を作り、各県の名前を書いてください。

 

 生徒の本質をつかむ試験。

 競争的な私見ではなく、集団のパフォーマンスを高めることを目的とした試験。

 評価の基準は以下の通りだ。

 

・自分の主張を論理的、具体的に説明できたか

・ユニークな発想があったか

・他者の意見に耳を傾けられたか

・建設的、発展的な議論の進め方に寄与できたか

・タイムキープを意識し、議論をまとめることに貢献したか

・地道な作業をいとわずに、チーム全体に対して献身的な役割を果たせたか

 

 前の二つは「主体性」、あとの四つは「協働性」を測っている。

 自分の役割をきちんと担えているか。

 協働して何かを成し遂げられるかどうか。

 以上のようなことが評価の対象となる。

 つまり、従来の生徒の持つ知識や情報の量のはかる試験から、生徒の本質を見極める試験に、試験の概念を変えていこうという大学側の意思があらわれている。

 だが、よく勘違いされるが、こういったアクティブな試験は「コミュニケーションが高いとされる生徒」が得するというわけではない。たくさん発言しても空回りする受験生もいるし、リーダーシップを発揮した方がいいと考えて議論を先導するも、うまくいかない受験生もいる。一方、物静かと思われた受験生が、的確な意見をズバッと述べることもある。

 こういった試験は、四年間の学びの伸びを見る出発点として大学入試を位置付けて行こうという考え方が基にある。あまりにユニークすぎて、受験者数が減るのではないかと思われそうだが、実際、堅調に推移しているそうだ。

 

 本書の第一章と第二章はさまざまなユニークな大学入試を紹介し、それぞれの試験の意図を述べ、これらが未来の大学入試だ、と声高々に論じている。

 

2.対話的な学びとは

 

 会話と対話の違いとは。

 平田氏の著書『わかりあえないことから』を購入したので、そこに精しいと聞いたので、ここではあまり述べない。

 まあ、言うても述べるけど。

 

 会話=親しい人同士のおしゃべり

 対話=異なる価値観や背景を持った人との価値観のすりあわせや情報の交換。あるいは知っている人同士でも価値観が異なるときに起こるやりとり。

 

 ここらへんは何となく理解できそうだ。

 

 じゃあ、今度は「対話」と「対論」の違いは?

 

 対論=AとBが議論をして、Aが勝ったとしたら、Bは意見を変えなければならないがAはそのまま。

 対話=AとBが話し合って、Cという新しい結論を出す。どちらも変わることを前提にしてコミュニケーションをとる。

 

 決定的な違いは、「協調」するか否かだ。

 対論は「協調性」なしでOKだが、対話は「協調性」なくして新しい結論は生まれない。

 価値観を一つにする方向のコミュニケーションではなく、価値観は異なったままで、文化的な背景の違う者同士がどのように合意形成を行っていくか、「対話」では試されている。

 

 教育学に精しいひとたちは、「主体的・対話的で深い学び」という言葉は聞き飽きたくらい聞いたことだろう。

 だが、平田氏に言わせれば、「主体的」と「対話的」は時に相反するようだ。

 主体性が強すぎても、対話は成立しない。

 確かにそうだ。

 だから、自分の主体性を少し曲げることも、対話の中では重要なのだ。

 フランス革命の理念は「自由・平等・博愛」だ。

 しかし、「自由」と「平等」はなかなか両立しない。

 自由が行きすぎれば平等は成立しないし、平等を追求しすぎると個々人の自由が束縛される。だが、この矛盾する概念の中間に抽象的概念の「博愛」を置くことで、普遍性が生まれ、世界へと伝播する。

 つまり、平田氏に言わせれば「主体的・対話的で深い学び」よりも「主体的・対話的で愛のある学び」の方がいいのではないかと冗談半ばに提案している。

 

3.最後に

 

 と、まあ、今回はこれくらいで締める。

 本書の第五章「子どもたちの文章読解能力は本当に「危機的」なのか?」では、以前本ブログでも紹介した新井紀子『AI vs. 教科書が読めない子どもたち』に瑕疵があるとして批判している部分があったのが、なかなか興味深かった。

 たとえば、こんな問題がある。

 

 Alexは男性にも女性にも使われる名前で、女性の名Alexandraの愛称であるが、男性の名Alexanderの愛称でもある。

 この文脈において、以下の文中の空欄にあてはまる最も適当なものを選択肢のうちから一つ選びなさい。

 Alexandraの愛称は(    )である。

①Alex ②Alexandra ③男性 ④女性

  

  答えは①だが、中学生の正答率は四割を切っていたという。高校生でも六十五パーセント。

 新井氏はこの正答率の低さに「背筋に寒気を覚え」るとつづっているようだ。

 だが、平田氏は冷静に「そんなもんだろう」と思ったそうだ。

 なぜか?

 単純な話、その設問に慣れていないからだそうだ。

 たとえば、センター試験の対策をしている偏差値(あまりこの言葉使いたくない)生徒とセンター試験の設問傾向をほとんど知らない前の生徒と同程度の学力の生徒が点数を比べあったらどうだろう?

 絶対に、前者の方が点数を取れる。

 慣れているから。

 こういった具合に、特殊な設問に「慣れている」人とそうでない人の差があったわけで、そこには学力の問題は横たわってはいないと言えよう。

 

 以上のような興味深い内容もあった。

 

 本の内容を鵜呑みにするのもよくないね、と陳腐な意見が浮上したところで、本当に締めます。さいなら。