落合陽一『0才から100才まで学び続けなくてはならない時代を生きる学ぶ人と育てる人のための教科書』

『0才から100才まで学び続けなくてはならない時代を生きる学ぶ人と育てる人のための教科書』

 以前、『日本進化論』を取り上げたが、その著者である落合陽一氏の著書だ。

 

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人生100年時代」に突入した今、生き方が変わろうとしている。1980年の時点では日本には100才以上の高齢者は役968人しかいなかったが、今や6万人を超えるという。(日本は100歳を超えた高齢者に銀杯を贈呈している。かつては純銀製だったが、2016年以降は予算削減のため銀メッキを用いている。それほど、100歳超えの高齢者は珍しくなくなったのだ)

 一つの場所で一つの職業をまっとうするという生き方はもはや旧式だ。

『LIFE SHIFT 100年時代の人生戦略』には、今まで(親世代)は「教育→仕事→引退」といった固定化された生き方がメインだったが、これからは「教育→仕事→休み→教育→仕事」といったマルチな生き方がメインへとシフトしていくだろう、と書いてあった。人生100年時代の到来により、70歳、80歳まで仕事をするようになるだろうという予測に基づいた推測だった。

 そんな予測不可能な時代の到来に向け、教育も変わりつつある。

 学習指導要領の変更などは今回は取り扱わない。

 今回扱うのは「STEAM教育」という新しい教育観についてだ。

 

 本書には第一章、第二章、第三章と分かれているが、今回は第三章のみ取り上げる。

 第三章「学び方の実践例・「STEAM教育」時代に身につけておくべき4つの要素」……見て行きましょう。

 

 

STEAM教育とは

 

 

「STEAM教育」の前に「STEM教育」について少し述べようと思う。

「STEM教育」とは、Science(科学)、Technology(技術)、Engineering(工学)、Mathematics(数学)の頭文字四つを組み合わせた、科学、数学領域に重点をおいた教育のことだ。2000年代に、科学技術開発の競争力向上という国家戦略の観点から米国で取り入れられた教育モデルで、近代日本でも注目を集めている教育なのだ。

 そこに新たに加えられたのが「Art」(デザインを含むアート)だ。

 AIやロボットに「使われる」人間になるのではなく、これからの時代に必要とされる、まさにAIやロボットを使う側になるために教養を身につけたり、創造性を活かしていかなければならない。そのためのSTEAM教育だ。

 これを聞くと、結局、これから求められる人材って「理系」じゃんって思ってしまうかもしれないが、そもそも、落合氏に言わせれば、「理系」と「文系」といったふうに分断してしまうことがナンセンスだそうで、その分断を横断してもっと総合的に学ぶ必要があるそうだ。私の場合、センター試験で数学は必修だったので勉強したが、私立大学の文系学部の受験科目は「国語・英語・日本史/世界史」の3教科で(誤解のないように書くが、選択として数学を選んでもよいが、ほとんどの受験者が歴史を選択する)、彼ら受験者は言ってしまえば数学はもはや勉強しなくてもいいということになる。これはまずいと落合氏は警鐘しているわけだが。

 

「コア・カリキュラム」というものがある。これは中心となる教科や活動領域を設定し、その周辺に各教科や学習者の活動を配置した同心円状的構造の教育課程のことだ。つまり、国語科の中で英語や社会などの他教科の内容にも触れるというものだ。こういった教育課程を実践すれば、教科化の分離の問題を解決し得るように思えるが、言うは易し行うは難しだろう。教師の労力過多にも繋がるだろうし、大幅なカリキュラムの変更により現場の混乱を招きかねない。だが、理論上はそういった総合的な学習がこれからは求められる。

 

 そもそも「何を覚えるか」ではなく「どう学ぶか」なのだ。

 国語で「走れメロス」を読むのはそれが目的ではなく、手段なのだ。別に日常生活にメロスがどうとかセリヌンティウスがどうとか考える場面など訪れない。「走れメロス」の登場人物の心情や場面の描写、文中における論理性などを考えることで、創造性やロジカルシンキングなどを得るのが目的で、その走れメロス」というのはツールに過ぎない。

 

 次に、「言語」「物理」「数学」「アート」(日本のSTEAM教育において不足している4つの要素)の4つについて、学びの実践例を交えつつ述べて行こうと思う。

 

言語

 

 

 論文を書けない大学生が多いそうで。

 かく言う私もその仲間入りをしてもいいのではないかと思うくらいなのだが。

 そういった卒業論文や研究学術論文などの学術的な文章を、書く技術、書く行為、書いたものをアカデミック・ライティングと呼ぶ。

 アカデミック・ライティングは義務教育や高校では教えてこないものだ。だが、このアカデミック・ライティングは論理的の正しく意味を伝達できるような文章を書くという意味で非常に重要なスキルとなる。

 日常生活においてもこのスキルは重要だ。例えば、情報伝達の正確性が求められている場面でしっかり論理的に説明するのは大切だし、擬音語などのニュアンスで話しかけられたら言語を駆使したロジカルな質問を返すべきである。そういった能力は、新聞の論説などを多く読めば養成できるものだと落合氏は言う。そもそもロジカルな文章を読めないと、ロジカルな文章を書けないのだ。

 さて、次に「論理的に物事を話す」トレーニングを紹介する。

 それは以下の通りだ。

 

〈実践例〉

 

A「猫を飼いたい」 B「どうして?」

A「近所の人が飼っていてかわいいと思ったから」

B「近所の人が飼っているから飼いたいの?」

A「いや。かわいいから」

B「どういったところがかわいい?」

A「モフモフしているところ」

B「モフモフって?」

A「えっと……」

 

 ソクラテスかな?

 でも、もし現代にソクラテスが生きていたら、いい教育家になっていたであろう。

 そもそも我々は知らないことが多いのに知った気でいることが多い。

 これは私の体験上そうで、私は今教師をしているが、こういうことに気付いた。

ワ行は「わいうえを」であるが、今は「い」「う」「え」を使わない(昔の遺産)というふうに認知していたが、実はそんなことなくて、例えば「笑う」の未然形は「笑わ」であり、「笑い」や「笑う」、「笑え」などの「い」「う」「え」が実はワ行のものだと最近理解した。いや、他の国語教師からしたら当たり前の事実だろうが(そもそも、動詞の活用は中学校で行うので、中学教師にとっては至極当たり前の事実だ)、私にとってはけっこう大きな衝撃だったのだ。

 こんなふうに普段何気なく使っている言葉や事象を深く掘り下げることで、今まで意識していなかったものが見えてくる。そういった意味で「詭弁」は、その「私は何も知らなかった」という事実を陽の目に出すのに有効な手段なのだ。

 

物理

 

 

 上記の通り、我々は判った気でいることが多くある。

 物理は本来「万物の理(ことわり)」を意味する。この世界の現象全般の背景にある普遍的な法則を指し示す言葉である。そう、身近な自然現象がなぜ起こるのか我々はよく知らない。例えば、「虹はなぜ七色なのか?」「なぜ空は青いのか?」「なぜ夕陽は赤いのか?」など、説明しろといわれても説明できない。もし子供にそういった疑問をぶつけられたらどうしようか? 「そういうものなの」と言ってしまえば、そこで子供はそういうものとして理解してしまうだろう。そうなってしまった(思考停止)子供に学びは生まれない。

 ちなみに虹が七色なのも、空が青いのも、夕陽が赤いのも、光の特性に由来する現象なのだ。虹の七色は光の水に対する屈折率の違いに沿って並んでいて、太陽光をプリズムで分解したときの色の順番だ。青い光は散乱する性質があるので、太陽が高い晴天では大気中に散乱して青い空になる。夕陽が赤いのは、太陽が地平線に近づくと太陽光が肉眼に到達するまでに通過する大気の層が厚くなるため、青い光は散乱し、直進性の高い赤い光がよく見えるようになるからだ。

 そういう光の屈折も散乱も、小学生が理解できる範疇で教えることができる(落合氏は小学校の理科の授業で学んだ、みたいなことを言っていたが疑わしい)。日常生活に潜むなぜ? を解説するのにもってこいの内容だ。そういった日常×学習のコラボを見せることがこれからの教育に必要となってくる。物理に興味を持てない子供はそういった知識を通じて物理世界と触れ合う感覚を知らないからなのだ。よく勉強嫌いの子が「勉強って何の意味があるの?」言ってしまうような状態だ。

 さて、今度は物理的思考を向上させる学びの実践を紹介する。

 

 水の入ったコップを見て……

A「何でこの水は冷たいの?」

B「冷蔵庫に入れていたからだ」

A「これは冷蔵庫に入ってなかったよ」

B「氷が解けてしまったんでしょ」

A「でも氷は入れてなかったなあ」

B「冷たい水だったんでしょ?」

A「でも、これ家の水道の水で」

B「外が寒いから」

A「寒くないよ」

B「水道管が地面の下で冷たいんじゃない?」

 

 といった具合に。

 これはけっこう極端な例だし、一方がそれなりの知識がなければ成り立たない会話だろう。だが、こういった議論は思考力を向上させるのにいい活動なのは確かだ。

 

数学

 

 

 学校で教わる数学はいわゆる「数的処理」と呼ばれるものがメインで、統計処理をこれからは教育課程に積極的に組み入れなければならない、と落合氏は述べている。小学生ではグラフの作成、平均、度数分布、中学生や高校生になると確率、分布、相関、統計的な推測について学ぶ。だが、それでも不足しているのだ。

 そもそも、この世界はGUIやWebインターフェースが身のまわりのあらゆるもののデータの集積で表層を形成しているのだ。だからこそ、そういったデータについていろいろ「数学」として知っておく必要があるのだ。

 本書に面白い試みが載ってあったので紹介する。

 データを収集して仮説検証することについて。

 男子トイレと女子トイレのマークを知らない子供がいるとする。そこでそれぞれのマークの役割について教えるのではなく、一緒にトイレを観察することから始めるのだ。トイレに入っていく人が男性と女性で分かれているのを見て、初めてその子供はマークの意味を知る。これは統計的思考による判断だ。これによって、もし別のトイレでも同じようにマークを見て、それぞれの役割の違いを理解できていたならば、それは学びの成功と言えるだろう。やはり、ここでも問題になっているのが、日常×学習だ。数学もまた日常に潜んでいる。それは「数的処理」のかたちよりも「統計処理」のかたちの方が大きく盤踞していると言えるだろう。

 

アート

 

 

 落合氏がメディアアーティストであるからか文体がこころなしか踊っているように見えた。

 アートを学ぶことで審美眼の多様さや普遍性、文脈の接続性、そして物事の複雑性を理解できると落合氏は述べている。STEM教育が論理的思考ならば、アートは感覚的・直感的思考である。この感覚的・直感的思考は、論理的思考を牽引したり、行き詰った論理をブレークスルーしたりする。そのためにもアート教育のもつ意味は大きいのだ。

 また、アートを生み出す見地は非常に個人的なもので、個人に内包される視点、量産品出ないその人にしか作れない希少性、つまり独創性があるもので、そういった思考そのものも、アートの枠組みでは反芻され、新しい価値観へと突破される可能性があるのだ。

 日本の教育は技能教育に偏重気味で、鑑賞教育がなされていないと落合氏は指摘している。鑑賞とは知識の披露ショーではなく、アートを見て、自分なりのコンテクスト(自分なりの観点)を持つことが大事だそうで、あるアートを見て、それを言語化する、そしてそれを自分が知るアートの文脈と照らし合わせながら深堀りする。……なるほど。

 

 文学を読む際、そこに作者の影は認めなくていいように、アートも同じくそれを誰が描いたとかいつ描かれたとかそういった前提知識は必要ない。そういったものは自分なりの観点を身につけるのを阻害するものだ。アートの世界に、正解・不正解などない。だから、自由な鑑賞を許すというスタンスを尊重したアート教育が希求されるべきなのだ。

 

 実践例を紹介する。

 ミレーの「晩鐘」を鑑賞する。

 

「畑だ。何の畑だろう?麦畑かな?ずいぶんと広い」

「男の人は、濃い色のズボン、つるつるてんだ。白いシャツにジャケット」

「ふたりは何歳くらいだ?夫婦?」

「フランスかな?」

「『落ち穂拾い』と似ている……バルビゾン派だっけ?」「地面は夕焼けに照らされたようにオレンジだ。でも夕焼けなら太陽は雲に隠されていないからね。光の特性上おかしいね」

 

……など、「いい!」だけでなく「おかしい!」とか「私ならこうする」といった意見もあればいい、とにかく鑑賞して思ったことを言葉にすることが大切なのだ。私は、最近、趣味が欲しいと思って、美術館巡りでもしようかと思ったが、これを読んで、ただ絵を観て帰るだけなら時間の無駄のように思った。ある絵画を前にじっくり観察し、思ったことをメモしていく……で、このブログにアウトプット……そういった七面倒な活動をしていくことで、私のアートの鑑賞能力は成長するのではないかと思っている。

 

 いろいろ述べてきたが、私は幸いにも学習者であるという立場が大好きで、何なら死ぬまで学び続けたいと思っている。いつしか英語をペラペラになって、美術への造詣も深くて、音楽の知識もあるといった……教養深い男に……、ま、理想を高く持つことは自由なんで。とにかく、私はこれからあらゆる本に出会い、そしてすべて丸のみするのではなく、自分の意見と照らし合わせながら、慎重に享受したり、批判したりして、よりよい知見を得ていきたいと思っている。

 

 私は「学ぶ」ことの大切さも面白さも最近知るようになった。

 知識が増えることは自信につながると思う。

 これからまだまだ人生は長いんだから、もっともっと学習していかないといけないな。