現実と虚構の間を揺れ動く
ああいった作品の共通点は「人vs.人ならざる者」という構図があるということだ。
(今、私がこうやって文章を書いているのは、ちょうど『ブレードランナー2049』を見終えた直後のこと。)
面白いストーリーの典型的なかたちはやはり「人vs.人ならざる者」なんだなと強く実感している。
そして、そういった面白いストーリーにもっと面白い要素を付加すべく、主人公サイド(もしくは主人公が)に「人ならざる者」の存在を介入させることがしばしばある。
『鬼滅の刃』でいうと、主人公の妹の禰豆子が鬼であるということ。
『チェンソーマン』でいうと、デンジ(主人公)が悪魔であるということ。
そういった「裏切り」が物語を熱くさせる。
正義と悪をきれいに分断するだけでは、なにも面白くないし、読者の食指も動かない。
正義側に「悪」とみなしていたものが入り込むことで、主人公側に「葛藤」が生まれる。ここで読者に「正義とは何か?」と考えさせてくれるのだ。
……‥‥
日常に潜む恐怖。
さっきは「人vs.人ならざる者」という構図がストーリーの下書きになっている作品が人気を博している、みたいなことを書いた。
実は今回はそういったことを書きたいわけではない。
「人」か「人ならざる者」か判別がつかないことは「恐怖」であるということをここで主張したいと思う。
手元に小説がある。
安部公房『人間そっくり』
三島由紀夫『美しい星』
村田沙耶香『地球星人』
あらすじ(内容紹介)だけ簡単に紹介する。
安部公房『人間そっくり』
(《こんにちは火星人》というラジオ番組の脚本家のところに、火星人と自称する男がやってくる。はたしてたんなる気○いなのか、それとも火星人そっくりの人間か、あるいは人間そっくりの火星人なのか? 火星人の土地を斡旋したり、男をモデルにした小説を書けとすすめたり、変転する男の弁舌にふりまわされ、脚本家はしだいに自分が何かわからなくなってゆく……。)
三島由紀夫『美しい星』
(地球とは別の天体から飛来した宇宙人であるという意識に目覚めた一家を中心に、核兵器を持った人類の滅亡をめぐる現代的な不安を、SF的技法を駆使してアレゴリカルに描き、大きな反響を呼んだ作品。)
村田沙耶香『地球星人』
(地球では「恋愛」がどんなに素晴らしいか、若い女はセックスをしてその末に人間を生産することがどんなに素敵なことか、力をこめて宣伝している。地球星人が繁殖するためにこの仕組みを作りあげたのだろう。私はどうやって生き延びればいいのだろう――。)
私はその物語が現実的なものなのか、ファンタジーが加入しているのか判らない小説を奇妙に思う。
『人間そっくり』と『美しい星』と『地球星人』は最後までそのどちらに当たるのか判らなかった。
『人間そっくり』では、火星人を名乗る男がはたしてほんとうに火星人なのか判らない状態が長らく続く(なんなら最後まで続く)。男が火星人ではないという証拠を見つけられないからそういう状態が続いてしまったわけだが、実際、それは悪魔の証明という証明不可の無理難題なのだから仕方あるまい。
『美しい星』では、さまざまな登場人物が空飛ぶ円盤を目撃しているという点では「ファンタジー」なわけだが、物語が進むにつれ、彼らは異星人であるわりには人間味を帯びているし、彼らが何か特別な能力をもって人間に対抗するような行為もとらない。異星人だと思い込んでいる異常者たちの物語ともいえる。
『地球星人』では、主人公はハリネズミのぬいぐるみのピュートに魔法少女になって欲しいと言われて、以来、主人公はピュートの生まれた星であるポハピピンポボピア星の魔法警察から使命を与えられ、気配を消す魔法・幽体離脱の魔法が使えるようになる。その幽体離脱の魔法で、先生を殺害するといった場面もある。最後には、大人になった主人公とその夫は人間工場(世界のこと)から決別した後、生き延びるために人間を食ってしまう蛮行に及んでしまうのだ(カニバリズム)。この話は現実なのか? 妄想なのか? 主人公はポハピピンポボピア星人になったのか? 地球星人だったのか? 最後まで判らない。
判らないことは不安であり、曖昧なことには痛痒感を覚える。
『人間そっくり』は登場人物の側が焦点化されているが、『美しい星』『地球星人』の方は客観的に語られている(『地球星人』は一人称視点で語られているのに、どうも客観性を帯びている奇妙な小説である。一人称なのに、その語りを信頼できないという、いわば〈信頼できない語り手〉というやつだ)。
『人間そっくり』は人間の帰属本能の解体、『美しい星』は政治批判、ひいては人間批判、『地球星人』は個を埋没化させる社会批判、ひいては人間批判を試みている。
いずれにしてもそれぞれテーマがあるのは確かだ。
奇妙な印象を残すことで、そのテーマを色濃く浮かび上がらせるのはさすがプロの作家だ。