気持ち悪い、優しい世界

「桃太郎」が女の子「桃子」の紙芝居 小学生ら偏見や差別を学ぶ

 

 桃太郎が性差による偏見の解消という理由で桃子という名前に変更され、鬼退治は野蛮であることを理由に鬼と話し合いをすることで和解を求めるストーリーに変更された。

 温室、純粋培養、優しい世界。

 そんなワードが頭に浮かんだ。

 近年、いろんなひとへ配慮しなければならないという風潮がある。

 コンプライアンスがガチガチでテレビ業界も出版業界もやりにくい感じがある。

 ぺこぱに代表されるような誰も傷つけない漫才こそ素晴らしいとされ、「ハゲ」をいじったり、「馬鹿」「阿保」などの人を罵倒する言葉を乱用したり、特定の人物をいじったりするような漫才はアナクロだと言われている。 

 めんどくさい世の中になった、と思う。

 誰も傷つけない、配慮の行き届いたエンターテインメントは気持ち悪いものだと思う。特に物語の場合、それが顕著だと思う。

 登場人物全員が善人で誰もが主人公に手を差し伸べてくれるような成長譚は見るに堪えないものだろう。

 なぜなら、そんな物語は「嘘」だからだ。

 社会にはあらゆる問題がはびこっている。

 いじめ、ハラスメント、交通事故、虐待、自殺、殺人。

 そんな社会病理に目を向けることなく、まるでパラレルワールドのような「優しい世界」をつくりあげるのはやはり違うと思う。物語の役割は現実で生きる術を与えることだと私は考える。物語を通して、自分の生き方を見つめなおす。それなのにその物語があまりに現実離れしていると、何の参考にもならない。

 かの桃太郎の話に戻ろう。

 桃子なる主人公が鬼と話し合いをするらしいのだが、「鬼」というものは本来、主人公側に対する「悪」であるのだから、素直に話し合いに応じるわけがない。だから、そこで「話し合い」による和解が成立するということは、そいつらは「鬼」ではなかったということだ。もし仮に「話し合い」による平和的解決を求めるというならば、「鬼」側の「論理」をはっきりしておかねばならないだろう。正義が対峙するのはまた別の正義であるように、鬼側にも主義・主張があるという事実を物語上で提示する必要があるだろう。それなのに、あの紙芝居はあっさりと話し合いで解決ができてしまっている。あまりに安易だ。

 

 少し前にあったが、有名な作家さんがJRで車いす乗車拒否を受けたという記事をネットに公開し、大きな反響があった。

 その全貌についてはここでは書かないが、記事を見る限り、自分が障碍を持っていることを武器に完璧な配慮を求めているのだから、批判の声の方が大きいのは首肯できる。

 実際、私も教員という職業柄、経験上(詳しくは書けないが)、障碍者という立場を利用して、「あれをしろ」「これをしろ」といった無茶な要求をしてくるひとをたびたび見かけた。もちろん、学校側としても障碍者を無下にする気持ちなどことさらなく、むしろ「ノーマライゼーション」が謳われている世の中で、あるべきなのは「平等」であり、そのための配慮はきっちり行っているのだが、クレーマーは過度な要求をしてくるのである。過度な要求というのは、ほかの生徒への対応をおろそかにさせてしまいかねないくらい大きな負担をかけるものである。

 

「多様性」が大事なのはわかるし、私としても「大切」にしていきたいと思っている。

 相手の立場に立って、ものを考えさせられるような教育を行っていきたいと思っている。

 また、私として「きれいごと」を言うことをいとわないし、むしろ、「努力すれば夢は叶う」という言葉を恥ずかしげもなく言ってもいいと思っている。

 優しい世界になることを私は望んでいる。

 しかし、残念ながら世界は残酷である。たびたび犯罪は起こるし、海の向こうでは戦争が起こっている。優しい世界とは真逆の世界が今の世の中である。

 

 「配慮」という言葉をあちこちに投げつけ、かえって生きづらくさせてしまっている今の世の中、社会病理の上に「優しい世界」幻想をぺたりと貼り付けようとしている事実が、なんとも気持ち悪い。

「配慮」は押し付けるものでもないし、人を縛るものでもない。配慮できないものはできないときだってある。

 また、「優しい世界」は目指してしかるべきだが、「社会病理」に無視を決め込むのは現実逃避にほかならない。

 

 今回、やや過激なことを書いたが、昨今の潮流が「おかしい」と思いつつあったので、こうやって筆を執った次第だ。

 

 こんなふうに昨今を皮肉った物語が「小説家になろう」にあるそうで、面白かったので、リンク先を貼り付けておきました。

 

各方面に配慮した桃次郎と桃子(順不同)≪ルビ付≫【There’s English】 (syosetu.com)