何者にもなれなかった
自分がない。
そのことに気づいたのはいつだったか。
多分、教員採用試験の面接試験に向けて自己分析を行っていたときだと思う。
自己分析。
「自分の長所・短所」「自己アピール」「ガクチカ」など、自分がどういう人間であるか、自分がどういったことを頑張ってきたのか、そこで自分はどう考えるようになったのかなどの、そういった「自分のこと」に関する分析。
いちばん身近で、いちばん知っているはずの「自分」について何も知らないということを思い知らされることで、自分が「何者であるか」わからなくなることがある。
そこで、ひとは「自己啓発本」に助けを求めたり、成功者の話を聞いたり、「自分探しの旅」に出掛けたりするのだと思う。
私は一時期「自己啓発本」を読んでいた。
YouTubeでそういった本をまとめてくれる動画を見ていた。
今考えると、だいたいの自己啓発本では、「考えるより行動しろ」とか「悪い環境から抜け出せ」とか「「自分に『なぜ?』を問い続けろ」とか、そういったことをあらゆる虚飾をつけて述べられていた。
そういった内容を受けて実際に行動に出られるのなら、自己啓発本を読んで意味があったといえるが、本を読んで、「いいことを知った!」と謎の満腹感を得て、終わってしまったらまったくもって意味がないだろう。
私はあらゆる自己啓発本を読んだり、動画で見たりして、いつも「なるほど!」と思っていたわりには行動を起こさなかったし、そのくせ自分が高尚な人物にでもなったような気がしていた。
しかも、昨今は、自分の職場の環境になじめずに起業家などのインフルエンサーの意見や著書に流されてすぐに転職を志したり、そもそも組織特有の上意下達を嫌ってフリーランスや企業などの独立を目指したり、FIREという「経済的自立と早期リタイア」というムーブメントを知って早期リタイアに憧れたり、そういった風潮がある。
だが、転職はまだしも、独立をしたり、早期リタイアしたりしている人は非常に少ない。それなのに、一部の人が手に入れた幸福を自分も享受できると勘違いしている人が多い気がする。
というのも、私も勝手にそう勘違いしていた愚かな人間のひとりだ。
「自分が何者であるかわからない」状態でいるとき、自分は何色でも染まってしまうと思う。だから、インフルエンサーの当たり障りのいいこと、都合のいいことを聞いて、自分も勝手に成功者にでもなった気がして、自分は何者かになり得たと勘違いする。
私は今まで何か自分の人生を大きく変えるような劇的な経験をしたことがなかった。
自分の価値観を大きく揺るがすような大きな出来事に遭遇したことがなかった。
自分は「何者かわからない」状態がずっと続いていた。
だから、自己啓発本に流されて、自分は高尚な人間になったような気がしていた。
この自分の愚かさに気づかせてくれたのは、Mr.childrenの「彩り」だった。
今社会とか世界のどこかで
起きる大きな出来事を
取り上げて議論して
少し自分が高尚な人種に
なれた気がして夜が明けて
また小さな庶民
別に、社会問題について議論した経験はないが、社会における価値観や働き方についていろんな人たちの言葉を受けて感化されていた時期があり、そのたびに「高尚な人種」になれた気がしていた。しかし、結局、私は「小さな庶民」でしかないのだ。
ふと「彩り」を聴いたとき、自分の愚かな部分を言い当てられたような気がして、恥ずかしく思った。
高校生のときから聴いていたはずなのに、初めてその歌詞の意味を、実感をともなって理解したのだ。
大学四年生時、教員採用試験に落ちてしまった私だったが、幸運にも常勤講師としてとある高校に勤務することができた。やや教育困難校に該当する高校だったのだが、そこで働くなかで、いろんな家庭事情を抱える子どもたちと出会い、「子どもたちの役に立ちたい」と思えるようになった。
自分の思いは本からではなく、経験から生まれることを知った。
そして、そこで生まれた思いというのはこれからも大切にしていきたい。
初めて自分を持てたような気がする。