正論を語ることの危うさ
現代文の教科書の中に毛利衛さんの書いた「新しい地球観」という文章がある。
私自身、これはいい文章だとは思えない。
と言ってしまうと、大変、毛利衛さんに申し訳ないのだが、学校現場でこの文章を扱う理由があまり見いだせないのだ。
まず、最初の方にこんな文章がある。
人間がこれからも生き延びるためには、私たちが拠って立つ価値観、とくに現在の先進国が中心になって築いてきた価値観を変え、「人類」として思いを一つにする必要があると私は考えます。それにはまず、国や人種の相違を超えて多くの人が感動することに目を向けることだと思います。そこに、思いを一つにする手掛かりがあると考えるからです。
まず、抽象的すぎる。
このあとの話の流れとしては、「あらゆる国でメルカトル地図が使われている。しかし、日本のメルカトル地図の中心には日本が、オーストラリアのメルカトル地図にはオールトラリアがあるように、メルカトル地図は自国が中心に位置している。」といったことを述べたあと、「そういった地図が当たり前だと思うことで、自国中心の世界の見方を形作り、固定化するようになる。」といった話に展開する。正直、かなり飛躍しているように思う。メルカトル地図を使用するということだけで、自国を中心とした考え方を固定化させるなんてことがあるだろうか? 地図にそこまで大きな効力はないだろう。
さらにオーサグラフ地図という陸地の面積比と形状を正確に描いた世界地図を紹介し、この地図は「世界に中心はなく、ひとつにつながっていること」を教えてくれると言っている。
世界には中心がなく、世界がひとつにつながっているということを知ったところで、いったい何になるのだろうか? と、思うわけだ。
毛利さんの思いは「人類として思いを一つにすること」だという。
社会にはあらゆる対立や衝突が起こっている。
いつの日か、その対立や衝突を乗り越えて、平和を目指していこうという思い。
確かにそれができたら最高である。
しかし、社会からそのコリジョンが消えることは永遠にない。
なぜなら、お互いの「正しさ」をぶつけ合っているからだ。
お互い自分の主張が正しいと思っている。自分たちの正義の剣でやり合っている。
だったら、それぞれの正義を主張することで、折り合いをつけることが重要に思えるが、実際にそれができるのなら、とっくの前に世界平和が完成していたことだろう。
別に、そういった実現不可能な平和の完成を純粋に信じている毛利衛さんを批判しているわけではない。
「影」がないことに対して不満なのである。
光があれば必ず影がある。
学校に優等生がいれば、劣等生がいる。
そういった「影」の存在を無視してはならないと思う。
理想を掲げる際に、光ばかり主張しても、何の説得力もないと思えてしまうのはそういう理由がある。
そんなことを言えば、「何てことを言うんだ」と言われそうだが、私は別に「光の主張」に対して異議を唱えているのではない。ただ「影」の存在に触れていないことを疑問視しているだけだ。
前にブログで書いたカルガモの親子の話をもう一度する。
親が子を引き連れて、ほほえましい光景だと感じる人は多い。
しかし、カルガモの親は子を間引きすることがある。カルガモは少しでも子孫を残す確率をあげるために子殺しをするのだ。
その子殺しを生で見たとき、ひとはショックを受けることだろう。
しかし、人間が勝手にカルガモが「かわいい」という幻想を妄信していただけで、別にカルガモ側は人間にほほえましい光景を見せようなどしていない。
いろんな世界において「影」がある。しかし、ひとはその「影」を見ようとせずに「光」ばかり見ようとする。
田舎暮らしでスローライフを過ごそうとか、上命下服の組織体制を抜け出してフリーランスをしようとか、FIREをしようだとか、聞こえはいいが、いざ始めてみると絶対に大変。でも、ひとがそういったものに憧れを抱くのは「光」しか見ていないからだ。
何事においても、それについて知ろうとするとき、「光」だけではなく「影」の存在にも目を通しておかないといけない。それが物事を捉えるということではないだろうか?
正論を語ることの危うさはこれに尽きると思う。