話を聞かぬ野蛮人

 話を聞かない人がいる。

 

 Twitterでも話題になっていた言葉がある。

 

「バカでもわかるように説明に工夫したところで、そもそもバカは説明を聞いてない。」

 

 言葉は悪いが、まさにその通りだと思う。

 

 そうなってしまえば、言葉など無意味と化す。

 

 実際、人類みな話し合うということに真剣だったら、この世は平和であったろう。

 

 戦争など起こるはずもなかっただろう。

 

 戦争とは正義と正義のぶつかり合いだと人は言うかもしれない。

 しかし、それならば、双方の正義観を述べ、納得解を得られるまで話し合いをすればいい話ではないだろうか?

 

 別に私自身、戦争をなくすのは話し合いだ、などといった脳内お花畑なことを言いたいわけではない。

 理論上の話。

 机上の空論。

 

 ウィリアム・ゴールディングの『蠅の王』という小説をつい最近読んだ。

『十五少年漂流』のような無人島漂流ものの冒険譚と思いきや、人間の怖さを思い知らされる、なかなか残酷な物語だった。

 

 あらすじとしてはこうだ。

 

 

疎開する少年たちを乗せた飛行機が、南太平洋の無人島に不時着した。生き残った少年たちは、リーダーを選び、助けを待つことに決める。大人のいない島での暮らしは、当初は気ままで楽しく感じられた。しかし、なかなか来ない救援やのろしの管理をめぐり、次第に苛立ちが広がっていく。そして暗闇に潜む〈獣〉に対する恐怖がつのるなか、ついに彼らは互いに牙をむいた。

 

 

 あらすじからわかるように、登場人物(みな子ども)は二つに対立する。

 ラルフ派とジャック派である。

 ラルフ派は島で過ごすためにルールを取り決めたり、助けてもらうために火を絶やさず燃やし続けることを使命としていた。

 対してジャック派は狩りを楽しんだり豚の頭を掲げ血を求め始めたりしていた。

 いわば〈理性VS野蛮〉の構図。

 ラルフ派はジャック派に話し合いを求めるがジャック派はまったく取り合わない。

 こうなってしまえば、もうどうすることもできない。

 事実、ラルフ派はジャック派に迫害される。

 もうそうなったら逃げ回るしかない。

 

 しかし、残酷なことに、島の中で生き残るには、野蛮になるしかないのだ。

 どれだけルールを決めて、外部からの援助を待ったとしても、その援助がいつ来るのか(もしくは二度と来ないのか)わからない以上、島の中でサバイブすることが先決となり、ルールに意味を見出せなくなってしまうのは仕方ないこと。実際、ほら貝を持った人にのみ発言権が与えられるというルールがあったが、後半部ではまともに守られていない。

 

 し、か、し、だ。

 

 この世界は別に野蛮になることが賢い生き方ではない。捕まってしまうからだ。

(もちろん、島には刑罰はないが、どの国々でもだいたい刑罰はある。)

 ならば、理性的に生きた方が賢い選択だと思う。

 だが、理性的に生きるにしても、話し合いが成立しない相手というのはごまんといる。

『蠅の王』は架空の物語だが、ジャック派のように、自分のことだけを考え、ただ刹那的に生きる〈馬鹿〉は多くいる。

 そんなやつらに話は通じない。

(『進撃の巨人』の話。

 ライナーとベルトルトの秘密を知ってしまったために、マルコは立体機動装置(なんかすごい装置)を取り外され、その結果、巨人に食われてしまう。

 巨人に食べられる前に、放ったマルコの最期のことば。

 

 ――まだ……ちゃんと……話し合ってないじゃないかぁあああ

 

 このセリフ、なかなか重いんだよね。

 ほんと話し合うことで分かち合えるかもしれないのに、それをしようとしない。)

 

 人間に話し合いはできないのだろうか?

 ならば、なぜ人間に言葉が与えられた?

 コミュニケーションのためならば、ノンバーバルでも伝わる。

 人間以外の動物が感情剥き出しで喧嘩をしているが、人間も言葉いらずの感情剥き出しの喧嘩をしているんなら、言葉なんていらないんじゃないの?

 

 壮大な考えに至ったが、そんなふうにぼんやりと思ったのです。

 

 

 

 

長沼睦雄『10代のための疲れた心がラクになる本』

 10代にはさまざまな悩みがある。 

 精神的な疲れであったり、それが身体的な疲れであったりもする。

 まずは、身体の不調について述べるが、私は医学に関する知識は皆無であり、それなのに「〇〇症」などと訳知り顔で書くという蛮行を、今回私が紹介する『10代のための疲れた心がラクになる本』に免じて、お許しください。

1.身体の不調について

起立性調節障害

【症状】朝、起きられない。頭痛がひどくて、立ち上がろうとすると、めまいでフラフラしてしまう。頭がぼーっとして調子が悪い。頭痛。胃痛。腹痛。顔色が青白い。食欲がわかない。吐き気がある。身体がだるい。すぐに息切れする。乗り物に酔いやすい。

 

【原因】学校のストレス、家庭のストレス、社会上のストレスが原因とされている。

(実は、私、起立性調節障害についてなじみ深いのだ。というのも身近にいるのである。彼女は朝はまったく起きられず、また起きたとしても体調が悪く、機嫌が悪かったりする。しかし、午後になると人が変わったように明るくなる。傍から見れば、確かに寝起きが悪いとか、朝はしんどいから仮病をしているとか思われかねない。しかし、本人は仮病をしているとか、そういった意識は毛頭ない。起立性調節障害について正しい知識を持たねばならない。)

 

【対処法】

・しっかり水分を飲む。

・起き上がるときはゆっくり。

・毎日三十分ほどの歩行。

・決まった時間に布団に入る。

・ふくらはぎをゆるませて血行を良くする。

 

過敏性腸症候群IBS

【症状】おなかが弱い。緊張すると、おなかが鳴り、差し込んできて苦しい。下痢。便秘。腸に炎症や腫瘍はなし。腹中がグルグルと鳴る。

 

【原因】ストレスが原因。いい人は敏感にいろいろ気付いてしまい、それがストレスになる。

(いい人であるがゆえに、敏感であるがゆえに、あれこれと考えてしまい、かえってストレスになってしまう。なんとなく理解できる。常に人のご機嫌をうかがっていると、精神をすり減らしてしまう。これはたしかに体に悪い。私はIBSではないと思うのだが、年がら年中、お腹の調子が悪い。)

 

【考え方・対処法】IBSはいいひとにしかならない。だから、自分はいいひとだと自覚してみる。ストレス回避のためには「言語化」:メモに書いてみる。下腹部にドライヤーを1分ほど温める。

 

睡眠障害

【症状】昼間、眠くて仕方ない。

 

【原因】睡眠不足が原因。過緊張の反動か。

 

【対処法】同じ時刻に毎日起床。規則正しい生活。刺激物を避ける。など。

 

過換気症候群

【症状】ときどき、息が吸えなくて苦しくなって、このまま死んでしまうのではないかと不安になることがある強い緊張や興奮、恐怖があったときに発作的に起こる。めまい。ふらつき。胸痛。しびれ。テタニー(手足のしびれ)。

 

【原因】ストレスが原因。また過呼吸を起こすのではないかという不安がストレスとなる。負の連鎖になりやすい症状。


【対処法】非薬物療法腹式呼吸。安心させる(命に別状はない)。

 

→これら①~④は不登校、ひきこもりのきっかけになりやすい

(特定を避けるため、具体的には述べられないが、実際に上記の症状を持つ生徒はいる。確かに学校休みがちだが、なんとか登校しているのでとても偉いと思う。)

 

2.つらさを伝えられないのは「結びつかない」から

①「身体と心がつながっている」ものだという意識がない。

 体調の問題は身体に起きているトラブルで、心の悩みは気持ちの問題だととらえてしまう。

②「うまく言葉で表現できない」ということ

 10代の脳は未成熟だ。自分の感情、思考、あるいは状況を、大人のようにうまく言い表すという回路が完成していない。頭でわかっていても、感情、感覚と言葉がむずびつかない。言語化が弱い。思春期のモヤモヤ感のなかには、自分が感じていることを的確に表現できない、という感覚がある。

 だから、感情の言葉とか、身体感覚の言葉とか、意識的に語彙を増やしていくようにすると、自分の感情が少しずつ伝えやすくなっていくことに気付く。

 

3.不安でたまらない心の悲鳴

①視線恐怖

【症状】人の視線がすごく気になる。

 

【対処法】マスク・サングラス → 視線を免れるためのアイテム

 

②自己臭恐怖

【症状】自分が「くさい」のではないかと気になって仕方ない

 

※ほかにも似たような恐怖症はある。

・容姿にコンプレックス=醜形恐怖

・完璧にできていないことへの恐怖=不完全恐怖

・自分は太っている=摂食障害

 

 これら恐怖症の原因は、偏桃体の過剰反応と不安の回路の強化である。

 

解離性障害

【症状】感情や感覚が自分から切り離されたような状態。子どものときにたいへんつらい体験をしたことが心の傷になって、脳と心と身体とがひとつにまとまった自分ではない、と感じるような症状。

 

 しかし、解離は脳がもっている防衛システムのひとつ。生存のための適応策なのだ。

 

※ほかにも似たような「解離性〇〇」がある。

・ハッと気づくと、記憶が途切れていることがある=解離性健忘

・自分とは異なる記憶や性格をもつ人格が表に出てくる=解離性同一性障害(多重人格)

 

 自分が「安心していられる居場所」がどこにもないと強く感じている。そして自分のなかで「もう限界」という状況が訪れると、脳が自己防衛のためにのシャットダウンをしてしまい、自分でも不可解な症状が出るようになるのだ。

 

【対処法】自分だけじゃないことを知ろう。とにかく、みんな何かに悩んでいる。いろんなアンテナを張って、とにかく情報を得る必要がある。

YouTubeで「トランスジェンダー」について検索してみると、その仲間を見つけることができる。など。)

 ひとりで悩んでいると、「この世で自分だけがおかしい」という思いに取りつかれる。世の中には同じような人、同じような思いをかかえている人がいる。悩んでいるのは決して「自分だけではないんだ」と知ることがすごく大事だ。

「これはひとつの個性なのだ」と胸を張って言えるようになるには、自分には仲間がいると思えること、それが大きな心の支えになる。

 

4.10代は友だち関係に敏感になる時期

 つねに友だち関係を「つなげておく」ことに心を支配された生活をつづけていると、「友だちに認められていることに、自分という存在の価値がある」という発想になってしまう。

 「友だちがたくさんいて、頻繁にやりとりできている自分」が自分らしいのだという思いに駆られてしまう。

 他人に認められていないと、自分が自分であるように感じられなくなる。

「友だち関係がすべて」「もし友だちから嫌われたら、自分はもうおしまいだ」という気持ちになってしまう。

 

 友だちに認められる。 → うれしい

 友だちから認められなくなる。 → 不安

 嫌われるのが怖い、人から好かれる自分でいたい。仲間外れにされるのが怖い、見捨てられるのが怖い。 → 言いたいことがあっても、我慢する。みんなと同じようなことをしておけば「安心」する。

 

 自分は内側にあるのに、外側からつくられていない?

 そういった人はしばしば「自分がない人」になってしまう。

 

※自分がない人

【原因】生育環境

・過保護・過干渉で育ったケース

(親の言いなりになる。反抗期がない。)

・幼いときにトラウマ体験をして、それを引きずっているケース

(深く心が傷つけられる経験をしていると、大事な人に対して、「自分がいうことをきかないと、見捨てられるのではないか」という強い不安を感じる)

・もともと気質的に敏感で人の気持ちを読み取りやすいというケース

(自分自身の感情は押し込めて、相手に合わせようとするのが心の習慣になっている)

うつ病・パニック症の原因

 

 とにかく「いい子キャラ」「お人よしキャラ」が危ない

 キャラを「自分にはそういうものが求められているのだろうな」と考える。そのため、自分の役割を演じる。つまり、空気を読みすぎるのだ。だから、根は真面目なタイプに多い。

 まずは自分のものさしをもとう。

 例えば、「これほんとうに好きか?」「これほんとうにやりたいことか?」と、疑ってみる。そして、自分の中にある「うれしい」とか「楽しい」とか「迷惑だ」と感じる気持ち、それを自分のものさしにする。「どう見られるか」ではなくて、「自分はどうしたいか」を尺度にする。

 

5.傷ついた心との向き合い方

 家族がどんなに親身になって心配してくれても、自分の体調、自分の心の状態、そのつらさ、苦しさは、自分しかわからないものだ。

 だから、「自分事として、主体的に向き合う」意識を持とう。

 心の傷の治す方法は、身体と心がつながっていることに着目すればいい。心がつらければ、身体もつらくなる。つまり、心のつらさが身体的な症状をもたらすということは、逆に言えば、身体の状態を整えることで、心も回復させやすくなるということだ。

ここでオードリー若林の名言を引用する。「ネガティブを打ち消すのはポジティブではなく、没頭だ」


 どれだけ他人が心配してくれても、心のケアをしてくれても、結局自分が自分と向き合わなければ治らないこともあるのだ。

(実は、私はある心の治療に成功した。なんてことない。何に対しても臆病になってしまうという病が治ったのである。(完全にではないが)その方法はいたって簡単。猫背を治したのだ。猫背になると、「胸がすぼむ」→「息がしにくい」→「体がふにゃふにゃ」→「歩幅が小さい」→「元気がなさそう」→「おどおどする」というふうに負のメカニズムが誕生する。背筋を伸ばせば、「背筋が伸びる」→「呼吸がしやすい」→「息苦しさがない」→「大きな歩幅」→「視界が広がる」→「堂々と振舞える」というふうに正のメカニズムが! 誇張表現でもなく事実である。ちなみに猫背を脱することで、声も大きくなる。いいことづくめなんです。)

 

 また、不登校などの期間は「養生期間」だと思えばいい。

 学校に行きたくない、しんどい、というのはいわば「心の洪水状態」であり、つまり、身体を休ませる必要があるということなのだ。

 子どもが不登校になったとき、「仮病じゃないの?」という声かけはNGである。子ども自身、放っておいてほしくないと思っているし、かといって叱ってほしいとも思っていないはずです。だから、日常の話をしてあげるとベストなのです。テレビやネットからだけの情報しかなかったその子にとって、日常の話は「自分がこうしている間にも、世の中はふつうに動いているんだな」と思わせてくれるものなのです。

 

 心の治療は、まず吐き出すことから。

 つらいとき、ひとに何も言わない、言いたくない、という調子では何の解決にも至らない。だから、まずはLINEなりノートなりに書き出してみたり、誰かに話してみたりするのがいい。

「変われる」と常に声に出していれば、ほんとうに「変われる」。

(言霊というものは、ほんとうにあると思う。)

 

6.言葉を変えると、心も変わる

 有名な話かもしれない……。

「コップに水が半分入っている」

 このコップを見て、あなたは「もう半分」と思うか「まだ半分ある」と思うか。

 前者なら、悲観的な考え方をするひとで、後者なら、楽観的な考え方をするひとだ。

 前者は「まだ起きていないことをあれこれ心配してしまう」ひとで、いわゆるストレスを抱えやすいひとだ。後者は「自分がここまでやれてきたことを下敷きにして、なんとかなる」と強い気持ちを持てるひとだ。

 ひとの気もちを変えるのは難しいかもしれない。

 しかし、言葉を変えることで、気持ちや考え方を変えることは可能だ。

 ふだん使っている言葉を変えると、考え方のクセ、ものごとの受け止め方は変わっていく。自分のよくない思考のくせを直せば、生き方も大きく変わっていく。

 例えば、「自分の感情を表現する言葉のレパートリーが少ない」とする。例えば、怒りの感情を表す言葉を「むかつく」しかないとする。すると、何があっても「むかつく」ばかりで、息苦しくなる。しかし、「がっかり」とか「悔しい」など表現の幅を広げるだけで、気持ちが落ち着く。なぜなら、自分の感情が理解できることはすっきりすることだからだ。

 また、「うざい」「死ね」などの言葉も同じだ。これらは相手を傷つけるためだけに発している毒にすぎない。自分のこまやかな感情をひとまとめにしてしまっているのだ。自分のなかのモヤモヤをうまく言語化できていないだけなのだ。また、そういった言葉は何度も使うから回路がつながりやすい。だから、言葉のレパートリーを増やす、つまり、言葉を豊かにするだけで心は穏やかになるものだ。

(自分のそのときの感情を的確にあらわす言葉が増えていくと、子どもでもおだやかになっていく。癇癪だってそうだ。これは感情を伝えたいのに、うまく伝えられない状態だ。

 赤ん坊はまだ言葉を持っていないために泣くことによってしか感情を伝えられない。

 しかし、ある程度言葉を自分の中に身につけることができたら、自分の感情に名前をつけることができ、落ち着いて自分の状態を理解することができる。よくむしゃくしゃするなあ、と言って、モノにあたったりするひとは、言語化する能力が乏しいのだろう。「俺は今日店長に叱られて、お気に入りのシャツを汚してしまって、朝からついてないなあ。悔しい思いと自分へのやるせなさを感じているよ」……などと自分の感情を言語化することで、なんとなく気持ちは落ち着きそう……かな?)

 

 逆さま思考というものがある。

「無理、できっこない」と思ってしまいがちなら、「無理じゃない。できる!」と声に出していってみる、といった逆のことを考えようというものだ。

(例)

「試験まであと三日しかない」→「まだ三日あるんだから覚えられることがたくさんある」

「引っ込み思案→あえて会長」

「優柔不断→あえて提案する」など。

(正直、そんなに簡単なもんじゃないとは思うけど…)

 言葉を変えることで、違う自分に変われるという「うまくいった例」は成功体験として脳に記憶される。だから、たった一度でもいいので、そういった逆さま思考を利用して、行動を変えてみよう。難しいことは承知だが、自分から変わらないといつまでたっても「変わらない」のだから。

 

 これは嫌な奴相手にも利用できる。

 嫌な奴に何か言われたらこういうのだ。

「あなたの言うとおり。いいことを言ってくれてありがとう。」

 自分に逆らってくると思っている相手が同意してくれると、相手はそれ以上責め立てようという気にならない。

「ありがとう」と言われたら、その関係を悪化させたくないと思うものなのだ。

 

 また、これは有名な話だが、リフレーミングも逆さま思考のひとつだ。

 短所を長所に言い換えるアレだ。

 自分には短所がいっぱいと思っていても、短所の数だけ長所になるのだから、考えようによってはたくさん長所をもっているひとにもなりうる、

(例)「優柔不断」→「慎重で思慮深い」

   「暗い」→「落ち着きがある」
   「飽きっぽい」→「集中力がある」など。

 

 言葉が豊かになると、視野が広がり、考え方も自由になるというものだ。

 

7.自分をラクにする方法

 自分をラクにするためにどうすればいいか。

 5つだけ紹介する。

1.マイナスの感情を吐き出す

 前の章で言語化することの大事さについて述べたが、心のモヤモヤを内にためこめるのではなく、それを言葉に変換して、書きだしたりする必要がある。

 これは例えば何かむかついたことや腹が立ったときにも有効で、「なぜむかついたのか」「腹が立ったのか」を考えて書き出すことで、冷静になることができ、気分が落ち着いてくるというものだ。

 それと同じように「自分のこのモヤモヤはなんだろう」と考えて、その正体をつきつめることで、自分を客観視して、自分の状態を理解できるものかもしれない。

(このブログでも一回書いたことなのだが、林真理子氏のこの言葉に感銘を受けた。

 読書で得られるメリットについて

「読書で得られるいちばんのメリットは、心の中のモヤモヤを言語化してくれることだと思います。ドロドロしていた感情が頭の中でしっかりと形づくられて、これからの生きる指針のようなものになるんです。/とくに古典文学を読むと私が探していた言葉がいくつも見つかるから、人生を重ねる中で何度となく読み返すという作品も少なくありません。/今まさにコロナ禍で心を痛めている人に、「本を読めば救われる」とまでは言えません。でも、つらい状況を客観的に見るきっかけにはなるのではないでしょうか。/歴史に名を残す指導者はどう動いたのか。激動の時代を生きた世界の人々は何を考えていたのか。読書を通して学ぶことは多いはずです。」

 読書経験を通じて、語彙力を増やすのもいいでしょう。

 自分の中に言葉がなければ、それを探すのにはやはり本を読むのが良いと思う。)

 

2.思い込みやこだわりを手放す

『メンタル・クエスト』にも書いたことなのだが、「完璧主義」は要注意ということだ。

 100点をとらなくちゃいけない、と思ってはいけないのだ。

 常に完璧を求めてしまうと、とても息苦しいだろう。

(こんなとき、私は村上春樹風の歌を聴け』の有名な冒頭を思い出す。

「完璧な文章などといったものは存在しない。完璧な絶望が存在しないようにね」

 流麗な文体で知られる村上春樹ですらそう言うのだから、この世に「完璧」なんてものはないのだ。)

 そんな完璧思考と同じように「学校には行かないとダメ」といった固定観念があってそれに縛られているひともいる。学校には行かないとダメかもしれないが、毎日行く必要もないし、ときには息抜きだって必要だろう。

 本当につらいときは「逃げたらいい」のだ。

(学生は平日は朝から夕方までずっと学校にいて、その多くの時間が授業を受けるための拘束時間だ。冷静に考えれば、なかなかのことを学生はやっている。大人ですら、ちょっと働いたら休憩時間が欲しいと思うものなのに。)

 ただ、誤解をしないでほしいのは、「逃げていい」の言葉をかけられているのは「追い詰められるくらいしんどい思いをした」という背景をもった人間に限るというものだ。言い方は悪いが頑張っていないひとが巷にあふれる「逃げてもいい」という言葉を安易に呑み込み、都合よく「自分は逃げていいんだ」と思っては、ますます堕落の一途をたどることになる。

 

3.先の見通しをよくする

 先が見えないというのは不安なものだ。

 たとえば、不登校になってしまって、「もうおしまいだ」と思ってしまう生徒がいるとする。しかし、はたして学校に行けなくなったから人生終了というものなのか?

 今の時代「通信制」「フリースクール」という選択もある。実際、私の勤めている学校でも、不登校になってしまった生徒がそういった道を選んでいるケースも大いにある。

 先の見通しを明るくするためには、やはり自分の殻に引き込むるのではなく、もっと広い世界を知っている大人に頼ればいいんだ。(そういった意味で「相談」も大切)また、実際に不登校になったが、今は元気で生きているというひとを探し出せばいいんだ。

 

4.環境は自分で選べる

 友だちは多い方がいいかもしれないが、その多さゆえに振り回されたりしていないか?
 本音で語り合える友だちがひとりでもいればいいものだ。

 つらいとき、哀しいとき、それを打ち明けるひとがひとりでもいれば、救われる。

(しかし、本音で付き合えるひとがいないとなると、それは哀しいことになる。)

 まず、自分にとって「安心・安全」といえる居場所をまず確保すること。

 それは自分自身で探し出すこと。

(ここで少し重い話をする。私は家庭でも学校でも居場所を失ってしまった子を知っている。本来、子供というのは両親からの庇護を受けるものだが、その両親は子に対して、強く当たっていたし、学校でもいろんなひとから嫌がらせを受けていた。その子は「安心・安全」といえる居場所を持っていなかったということなのだ。でも、その子には友だちもいた。その子には家庭環境のことや、いじめについて、赤裸々に話していたそうだ。いわば、本音で語り合える友だちはいたのだ。しかし、教員はそういったことを知らなかった。ここに教員と生徒との間に距離があったのではないかと今思うと、ある。)

 

5.人間以外に目を向ける

 ストレスを種はいつだって「人間」にある。

 友人関係のトラブル、家族間のトラブルなどなど。

 いつだって、人間関係によってストレスというものは抱えてしまうものだ。

 だったら「人間以外のものに意識を向ける時間」を大事にしよう!

(ここから語るのは完全に自分のこと。動物とかかわるのはいいよね。動物は言葉を使わないし、感情についても理解しやすいし。私は犬とか猫とかペンギンとか大好きだ。心が癒される。人間を見て、心が癒されるなんてことはめったにない(アイドルは別)。人間はいい表情してても中身はドロドロだったりするので信用にならないが、動物の場合、そんなことないし、そんなことを考えなくていい。ただ脳死で「かわいい!」って思えるから、ほんとラク。癒される。

 自然に目を向けるのもいい。ありきたりな表現だが、たとえば宇宙について考えをめぐらせると、いつも自分という存在がいかにちっぽけで、自分の抱えている悩みはいかに小さなものだったかと思い知らされる。私は田舎の風景とか大好きなのだが、空気がおいしいと、自然と気分がよくなるし、目の保養にもなる。だから、自然について考えをめぐらせたり、眺めたりするのは、自分の心をラクにするのにもってこいのことだ思う。)

 

8.自分を好きになろう!

 自分を好きになるためにどうすればいいか?

 答えは単純明快だ。

 これは前にブログで紹介した「分人主義」と共通しているが、「自分のいいところや悪いところ、すべてをひっくるめて、自分なのだから、ありのままの自分でいい!」という考えを持てばいいのだ。

 自己肯定感が低い人は総じて「自分はダメだから」と思ってしまっている。しかし、その自分の弱さを引き受け、「できなくても、これが自分」と思うことができるようになる、これこそほんとうの「自己肯定感」なのだ。

 ひとは評価してくれなくてもいい、自分自身が自分のことを認めてあげればいい。

 そうやって等身大の自分、現実の自分を受け入れられるようになると、自分を好きになっていくことができるのだ。

 自分の軸は決して他人によって規定されるものではない。

 自分のものさしによって自分で判断することだから。

 

9.まとめ

 この本を読んで、一番「なるほど!」となったのは「言語化することの大切さ」である。

 やはり、心の中にあるモヤモヤはモヤモヤ状態であればしんどいものだ。

 幽霊が怖いと感じるのはその正体が不明であるからだ。

 カメラに映った白い靄のようなものが幽霊ではないかと騒いでしまうのもわかる。しかし、その正体がカメラの不具合だったとしたら安心できるだろう。つまり、不明だったものが、その正体が分かれば、心は安心するものなのだろう。

 心の中のモヤモヤに名前をつけることができたら、きっとラクになるはずだ。

 そのためには語彙力とか文章力とかが必要になってくる。

 国語科教員と、私の自分軸である「生徒の役に立ちたい」「悩みの解決に尽力したい」というのは案外いいバランスをとれているのかもしれない。

 

 

 

Iメッセージの発見

 

Fラン大学就職チャンネル

(改めて名前がよくない。内容はすごいのに、名前のせいで敬遠されている気がする)

毎度毎度心に刺さる話ばかりで驚かされる。

 

今回ばかりは、書かねばならぬと思い、筆を下しました。

 

はい。

 

この話、ようはインフルエンサーの言葉や偉人の名言に感銘を受けて、それをそのまま自分の中に取り入れてしまう人を揶揄しているんだけど、これ――

 

完全に自分じゃん、と。

 

正確には昔の自分。

 

本を読むのにはまっていたころ(今もそうだが)

いろんなインフルエンサーの言葉に感化されていた。

本を読みまくり、YouTubeを見まくっていた。

そして、どこか自分が偉くなったような気がしていた。

 

しかし、そんな成功者の言葉なんて、その人たちの背景があってこそ成り立つものであり、万人に適合するものではない。

 

それは動画内でもきちんと言及されていて、ハッとさせられた。

 

いやー、すごい。

 

誰かの言葉ばかり取り入れた結果、自分がない状態になってしまった。

動画内の主人公も、俺も。

 

ということで、最近は自己啓発本を読んでいない。

最近、読んでいるのは「心のケア」系とか「教育論」系とかだ。

自分軸を揺るがすようなものは読まないようにした。

 

俺は今「教育や相談で誰かの役に立てたら」ということをモットーにしている。

個人主義の時代がどうとか一時思っていたこともあったし、教員向いていないな起業するか的なことも思ってないこともなかったし……

 

はい。

これからは「Iメッセージ」をもっていろんなことに取り組んでいきたいと思う。

 

 

悪い!

未成年が犯罪を犯した

 

未成年が悪い!

 

未成年は日常的に母から虐待されていた

 

母が悪い!

 

父親はあまり家に帰ることなく家事・子育てすべて母親に丸投げだった

 

父が悪い!

 

家庭環境が悪いのは近所で有名だった

 

近所の人が悪い!

児相が悪い!

 

家庭環境が悪い原因は経済的に苦しいから

 

社会が悪い!

 

すべては社会批判につながる

 

 

平野啓一郎『私とは何か 「個人」から「分人」へ』

 平野啓一郎氏の提唱した分人主義について語っていきたいと思う。

 

 実はどこの出版社だったか忘れたが、この分人主義について取り上げていた国語の教科書もあって、世間に浸透しつつあるのかな、とか、認められつつあるのかな、とか思っている。

 

 

 

①私とは?

「私」という存在とは別に「私ではない私」が複数いるという感覚、ある?

 それはしばしば仮面とかキャラとかいう名前がつけられる。

 しかし、それは違和感のあることだと平野氏は言っている。

 

 高校内で自分のクラスにいるときは友だちも多くいて明るくなれるが、選択の授業とかで友だちがいないクラスでは暗い。

 

 この場合、どっちがほんとうの私だと言えるか?
 多くの人は「明るいときの自分」こそほんとうの自分だと言いそうである。

 しかし、実際問題、明るいときの自分と暗いときの自分ってすみわけをさせているのかと尋ねられれば、そうではないと言えるだろう。

 わざわざ陽気モードと陰気モードを切り替えているわけではない。

 ならば、どっちも「ほんとうの自分」ではないか?

 

 ようは相手次第で自然とさまざまな自分になる。

 そもそも友だち同士と話すノリを教師や店員などと話す場で持ち込むのはよくないし(実際には多くいるのだが)、後輩と話すときと先輩と話すときではやはり違った話し方になる。しかし、それはいたって自然なことなのだ。コミュニケーションが成立するための必須事項なのだ。

 だからこそ、人間は決して唯一無二の「個人(individual)」ではなく、「分人(dividual)」だと平野氏は言っているのだ。

 よく表の顔とか裏の顔とか言うが、そもそも相手との相互作用によって「自分」は決まる。外面はいいけど、内面はすごい悪い。そんな人はいるが、それは自分の悪い部分を見せられる相手と、見せられない相手がいるだけにすぎない。これはまさに相手との相互作用の中で分人が生じているのだ。

 よく「ほんとうの自分」を求めるひともいる。

 しかし、分人はすべて「ほんとうの自分」である。

 たったひとつだけの「ほんとうの自分」なんてない。幻想なのだ。

 

②個性とは?

 個性とは、ひとりひとりの個人の特徴的な性質のことだ。

 教育現場でも、個性を伸ばせとか、個性的に生きろとか言われる。

 しかし、実際のところ、同じ制服を着させられたり、校則で髪型が規定されたり、それを守らなければ叱られてしまう。

 理不尽なことだろうか?

 いや、そもそも個性とは違う制服を着ることとか違う髪型にするとかそんなことではなくて、ものの見方とか感じ方とか考え方のことを言っているのだ。

 そして、その個性と職業とを結びつけることが「個性の尊重」なのである。

 自分のしたい仕事をすることこそが個性的に生きる、という意味なのだ。

 

 個性的な人間がいることは非常にいいことだ。

 しかし、大事なことを忘れてはいけない。

 いろいろな個性の人間がいるから、それを活かせるような多様な職業がつくられたわけではない。その逆だ。(手紙を届けるのが得意な人がいるから、郵便局がつくられたわけではないだろう。)

 職業の多様性は、個性の多様性に比べてはるかに限定的である。

職業選択の自由」という言葉があるが、これは「職業選択の義務」にほかならない。というのは、私たち社会は、必要に応じてさまざまに機能分化し、誰かがその役割を担わなければ、不都合だからだ。農業に向いている人は農業に従事し、営業に向いている人は営業をし、教員に向いている人は教鞭を振るった方がいいのだ。

(自分を高めるために、とか、短所を克服するために、とか、そういった理由で職業を選択するひとがいるが、冷静に考えると、会社にとってメリットはないし、社会にとってもメリットはない。自分の個性をぞんぶんに発揮できる仕事をやった方が何千倍も人の役に立つ。)

 

 しかし、だからとって「個性を発揮できる」仕事が何か自分でもわからない。

 そして、自分とは何か? と考え、アイデンティティクライシスに突入する。

 アイデンティティが不安だと、確固たる「ほんとうの自分」を追い求めようとする。

 ただ、前にも記述したが「ほんとうの自分」などない。

「ほんとうの自分」は幻想である。そして、「分人」そのものである。

 

 さて、「個性」を「分人」という言葉を用いて説明する。

 個性とは、分人の構成比率のことだ。

 誰とどうつきあっているかで、自分の中の分人の構成比率は変化する。その総体が、自分の個性となる。十年前の自分と、今の自分が違うのは、周囲の環境であったり、友人関係であったり、それらが影響し、分人の構成比率に変化をもたらしたのだ。そのため、個性とは、決して生まれつきの、生涯不変のものではない。

 これを利用すれば、人間はいつだって変われるということだ。

 今の決断力のないひ弱な自分が嫌いなら、あえて環境を変えたり、友人関係を変えることで、自分を変えればいい。なかなか難しいことだが、理論上は可能である。

 また、いじめや虐待を受けることで心に深い傷を負っているひとは、新しくあうひとに対しても「自分は愛されない人間だから」と思うことがあるが、「愛されない自分」と本質規定してはならない。なぜなら、いじめや虐待を受けた自分は、その相手との分人であって、一度区別して考えるべきだからである。

 人格はひとつしかない、という考えを持つことで泥沼に沈んでしまうことがしばしばあるのだ。

 

③分人って?

 私たちはあらゆる人格で、人生のあらゆる局面で、本音を語り合ったり、相手の言動に心を動かされ、考え込んだり、決断を下したりしてきた。そこに関わる複数の人格は、私たちの人生を築き上げたということだ。

 つまり、それら複数の人格は、すべて「ほんとうの自分」にほかならない。

 何度も言うが、その複数の人格こそ「分人」である。

 そして、その「人格」は、コミュニケーションの反復を通じて形成される。

 では、その「人格」の形成の流れについて紹介しよう。

 

・社会的な分人

 ひとは初対面の相手に対して、まず簡単な自己紹介をして、当たり障りのない会話をする。たとえば、天気とかスポーツとか芸能ニュースとかそんな話題。多くの人が関心を共有できる話題。ここでは、これから互いに、相手に向けて分人化してゆくうえで、その方向性が手探りされている。

 この最初の段階を「社会的な分人」と呼ぶ。(不特定多数のひととコミュニケーション可能な、汎用性の高い分人で、日常生活の多くの場面で生きている未分化な状態)

 

・グループ向けの分人

 社会的な分人の次の段階は、特定のグループに向けた分人だ。

 一般的に人間関係は組織や集団を介して広がっていく。その場合、学校や会社、サークルといったグループ向けの分人が求められる。会社・学校のような公的な帰属先、渋谷でたむろするギャル男・ギャル界隈、5チャンネルなどのインターネットの匿名掲示板、そのなかでの話し方や独特な用語があったりする。

 集団との反復的な関わりから、分人が育つ。

Twitterで見られる「草」とか「ンゴ」とか、ネット内で言っているならまだいいが、現実世界で言っているひとを見ると忌避感を覚えるのだが、これはきっとグループごとに分人があるのに、その場にふさわしくない分人が顔を表していることを意味するのだろう)

 

・特定の相手に向けた分人

 社会的な分人、グループ向けの分人を経て、最終段階。

 長い付き合いで、お互いやりとりを交わしていくと、共に思考のクセとかテンポとかもわかってくる。いわゆる「親友」と呼ばれる存在ができたとき、「分人」が完成する。

(ごく短時間のうちにその分人化が成功することもあるそうだ)

 

 いろんな人格を備えていることに嘆息してはならない。

 そもそも私たちは、日常生活の中で、複数の分人を生きているからこそ、精神のバランスを保っているのだ。会社での分人が不調であっても、家族との分人が快調であるなら、ストレスは軽減される。

 また、人間とは、たった一度しかない人生の中で、できればいろんな人生を生きたいと思っている。できればいろんな自分を生きたいと思っている。対人関係を通じて、さまざまに変化しうる自分をエンジョイしたいと思っている。いつも同じ自分に監禁されているというのは、大きなストレスである(←わかる)。

 だから、主人公の感情に移入してストーリーを疑似体験できる文学・アニメ・映画がもたらす力は非常に大きい。

 

④まとめ

 本書を読むと、平野啓一郎氏の『ドーン』を無性に読みたくなった。

『ドーン』。名前だけ知っていた。たしか、オードリー若林も持っていたと思う。『決壊』の方だっけな? いや、たぶん『ドーン』だったはず。

 ともかく、分人主義というのはなかなかいい考え方だ。

 生きづらい日々を照らしてくれる希望のヒントとも言えそうだ。

 ひとはしばしば「ほんとうの自分とは何か?」と思い悩むことがある。「自分は自分だ」と思える人はそれでいいが、沼にどっぷりはまってしまう人もいる。そういう人は「自分探しの旅」に出るとか言い出すはずだ。

 就活前の自己分析がいけない。自分史を振り返ると、いろんな自分がいて、どれがほんとうの自分かわからなくなるからだ。だって、陰気なときもあれば、陽気になれるときもある。しかし、どちらも自分であり、どちらかが「ほんとうの自分」とかではないのだ。

 そのとき相手にしているひとによって、ひとは変わる。これは表裏があるとかではなく、キャラを演じ分けているわけでもなく、自分の意識とは関係なく勝手に変化するものである。

 また、個性とは「分人の構成比率」である。誰とどうつきあっているかで、自分の中の分人の構成比率は変化する。その総体が、自分の個性となる。

 ならば、付き合うひと次第で「好きな自分」を築き上げることができるというわけだ。

 

 最後に、教員として、「分人」を利用して、どう生徒に接するか、平野氏が述べていたので、それをそのまま引用する。

 

 

いい先生は、生徒一人一人に対して柔軟に分人化する。

 グレた生徒とは、その生徒と最もうまくコミュニケーションが取れる分人となる。優等生とは、また違った分人で接する。そのことに、生徒が信頼を寄せる。

 一方で悪い先生は、どの生徒に対しても、教師としての職業的な分人だけで接する姿が強調される。生徒というグループ向けの分人に留まっている。どんな生徒に対しても平等というのは、同じ顔で接する、ということではない。同じように相手の個性を尊重して分人化する、ということだ。

 

 

 よく、人によって態度を変えると贔屓だとか言われるが、やはりひとりひとり異なる人間である以上、接し方というのは変えていくべきなのかもしれない。

 また、「ほんとうの自分はどこにいるのか?」とアイデンティティクライシスに陥っていた生徒がいれば、私は「今まで自分の人生を築き上げてきた『自分』すべてが『ほんとうの自分』」と言いたい。気障っぽいけど。

 そう言いたくなるほど私にとって、「分人」という概念は自分の中でしっくり来たのだ。

 

 

 

生きづらさについて

「いい子」を演じ続けた結果、見失う生きる意味 | リーダーシップ・教養・資格・スキル | 東洋経済オンライン | 社会をよくする経済ニュース (toyokeizai.net)

 

 上の記事についてまとめていきたいと思います。

 まとめるだけです。

 自分の意見は排していますが、主に私はここに書かれていることに非常に共感いたしました。

 

【生きづらさについて】

 

 人間はつねに生存の危機と共にあった。戦争。飢餓、病気など、その生命をまっとうできない危険性がある環境で、「生きること」そのものが目的だった。

 しかし、社会が豊かになり、命に危険性がなくなると、「生きること」それ自体の意味を見つけることは難しくなった。

 社会が豊かということは、人が人生を賭して埋めるべき大きな「穴」がないということだ。そこで必要となるのが「自分の物語化」である。これまでの人生で連綿と起こって来たできごとに対して、自分なりの解釈をつけていく。(成功者はみな「生きる意味」を見出している。それは自分の物語の中で見出してきた。)

 誰からも褒められるいい子を演じてしまうと、一時的な承認を得られるが、それは自分のリアルな心根の部分を承認されているわけではないため、すぐにまた「誰かに褒められる何か」をしていないと不安になってしまう。このような、他人の感情を優先する生き方から脱け出す方法は、自分だけの「好き」を見つけて追求することである。

 明確な答えのない今の時代において、人の心を動かすのは「弱き者の物語」である。「弱い者」は支持されて、そこに登場するキャラクターは、どこか弱く、格好悪く、人間臭い。そのうそのないリアリティーこそが愛おしさの源泉であり、完璧でないわれわれに「それでも生きていていいのだ」と安心を与えてくれる。

「いびつさ」は、その人の真骨頂であり、本質的な魅力そのものだ。自分の弱さ、いびつさ、未熟で格好悪いところを認めて、それをも引き受けた「うそのない物語」は、ありのままの自分を「それでもいいよ」と肯定し、長きにわたって人生を支えてくれる「しなやかな強さ」をもたらすものになる。

 

 

Jam『多分そいつ、今ごろパフェとか食ってるよ』

 

 本作は、Jゲームグラフィックデザイナー、イラストレーター、漫画家の三つの肩書を持つJamさんの著書です。

 日常で怒る人間関係の悩みをかわいらしいネコちゃんを中心に描いた漫画がたちまと話題になり、それが本書『多分そいつ、今ごろパフェでも食ってるよ』です。

 

 人間関係をめぐる、めんどくさいこと、しんどいことへの対処方法をいろいろと学びました。

 

 それをいくつか紹介したいと思います。

 基本的にかるーく描かれているので、すごくゆったりとした気持ちで読むことができました。

 

1.SNSのモヤモヤ

 ・SNSに写る幸せな姿。うらやましいと思う。しかしSNSで見る部分は氷山の一角で、一番きれいな部分だけを切り取っているにすぎない。映画で言えばハイライトの部分だ。主人公が波乱万丈な映画でも、一番いいシーンだけ抜き出して途中のシーンをカットしてしまえば、いい部分しか見えない。そこには写っていないだけで、そのキラキラとした一枚の写真になるまでに本人はすごく大変な思いをしたり、陰では血のにじむような努力をしてきたのかもしれない。そこに至るまでの過程を知ったら、「絶対に代わりたくない!」と思うかもしれない。だったら人の幸せをうらやましがる間に、自分の幸せのために頑張る方が早く幸せになれるかもしれない。

 

(インスタはやっていないんだけど、たぶん、インスタやってたら私死んでいる。なぜなら、インスタに投稿されているキラキラした日常の一コマは私にとって大いなる精神ダメージを与えるからである。しかし、そういったキラキラした日常の一コマの裏には、不断の努力ゆえの汗と涙が隠されているのだろう。……まあ、インスタは見ないな、きっと)

 

SNSでは声を大にして自分の自慢や主張をアピールしたがる人がいる。そういう投稿を目にしては、「わざわざ書かなければいいのに」といちいち反応し、イライラしてしまう。しかし、ほんとうに嫌ならば見たらその場でブラウザバックでもすればいい。それでも無視できないでいるのは実は自分がそれを求めているからではないか。「忙しいアピール」を見る人は仕事に不安があったり、「幸せ自慢」を見る人は将来を焦っていたり、「愚痴大会」を見る人は自分も本当は言いたかったり。相手は自由に書いているだけだ。自分も自由に見るものを選べるはず。イライラするために、見る選択をしているのは自分だ。

(今度はTwitterの話。前のブログにも書いたけど、Twitterなんかやるもんじゃないよねってこと。インスタが幸せの詰まった宝石箱ならTwitterは愚痴のゴミ捨て場(言いすぎか?)。ひとって嫌な気持ちになると、その気持ちを外に吐き出したいと思うようになる。それがTwitterにおけるツイートとしての表現だ。だから、愚痴のゴミ捨て場と化してしまうのは致し方ないことなのだ。それが理解できれば、わざわざ酸鼻をきわめる愚痴のゴミ捨て場に来て、嫌な気持ちになる必要などないだろう。)

 

・何を言ってもつっかかってくる人がいる。何を言っても気に食わない人はいる。匿名なので好き勝手言える。そんなときは「いろんなひとがいるしね」と軽く流す。

(世の中いろんなひとがいる。信じられないような考えをもつ人間もいれば、神の権化のような優しいひともいる。いろんなやつがいる。「リンゴが好きだ」とツイートすれば、「俺、ミカン好きなんだけど」とつっかかってくるようなやつがいたり、「リンゴ好きにろくなやつはいない」と聞いてもないのに言ってくるやつがいる。そんな世界。だから、性善説を信用するのはもうやめて、逆に「いろんなひとがいて、おもしろいなあ」くらいの、ゆるい気持ちでいた方がいいのかもしれない。)

 

2.人間関係のモヤモヤ

嫌なことをした相手は何をしたかも覚えていない。嫌な相手のためにどんなに真剣になっても、自分が気にした分だけ、相手も真剣に自分のことを気にしているわけじゃない。「あいつは今ごろパフェとか食ってる」と呟いてみる。

(いじめにおける被害者はいじめを受けたことをいつまでも覚えているが、加害者はいじめた事実をすぐに忘れるといった典型例。基本、ひとが嫌がらせをするとき、いつだって軽い気持ちでやっている。だけど、やられた側はそれを忘れない。忘れることはできない。今回の話はいじめじゃなくて、嫌味っぽいことを言ってくる相手への対処法だ。嫌味っぽいことを言うやつのことをいつまでも根に持つのは、なんだか人生損した気分にならない? ってことなのだろう。相手は「したこと」なんてすぐに忘れてしまっているんだから、こっちは真剣に考える必要なんてないよってこと。これは「嫌なことを言われた」レベルならいい対処法だろうが、いじめの問題になると話は変わって来るだろう)

 

・怒りを抱えているときは、自分の頭の中では相手と戦っているイメージだが、実際はシャドーボクシングで自分だけが頭の中で架空の相手と戦っている。

 嫌な奴のために憎んで恨んだら、自分の方こそ嫌な奴になってしまう。だから嫌いな奴はできるだけ忘れた方がいい。

(憎しみは憎しみを生む。Aに何か嫌なことをされて、Aに復讐をしかけたとて、今度はAにとって自分が嫌な奴になる。そして、Aは自分をまた迫害しようとする。憎しみの連鎖は止まらない。これが大規模な形で現れているのが「戦争」なのだろう。)

 

・人を偏見で決めつけてしまうことがある。それは自分の真意ではない。だから、そんなときは、顔も名前も塗りつぶして、まったく知らない人のつもりで、もう一度その人の行動や言動を見てみよう。

(これができたらどんなに楽だろうか。どうしても嫌いな人と会うと、その人の嫌いな側面ばかり見つけてしまうものだ。その人がどんなにいいことをしていたとしても、その人が嫌いである以上、アップデートされることはない。なぜなら、その人への評価が固着してしまっているからだ。その評価がたとえ偏見で糊塗されていたとしても。一度、そのひとをまったく知らないひとと想定して、接してみる。難しいが、やってみる価値はあるか)

 

キャラの決めつけはそのひとの見える範囲の言葉でしかない。決して相手のことをほんとうに理解したうえでの言葉ではない。

(「あなたは~だから」と決めつけられるのは気分的によくないことだ。相手よりも絶対に自分の方が自分のことを理解できているはずだ。そういう決めつけを言われた時は適当にあしらうのが一番なのかも)

 

人に理解されたいと願う自分が、人を理解できているか考えると、正直理解できていないことがあると思う。

(これも前のブログで書いたが、100%自分のことを理解してくれるひとはいないのだ。逆にいえば、自分もまた相手を100%理解することはできない。それなのに、自分のことをちゃんと理解してよ!というのはおこがましい?)

 

・すべてのひとから「いい人」と思われる方法はない。万人に好かれなくて当然だし、自分もまたすべてを好きにならなくていい。そもそも人の評価なんてあいまいなものだし。

(私は「いい人」であろうとする。しかし、100%好かれる人なんていない。だから、「いい人」を演じ続けたってしんどいだけだ。ときには自己チューになってもいいんじゃないか?)

 

もし本当に周りが常にあなたを噂していたり悪く思っているとしたら、それはもう有名人である。いつもあなたのことを考えてくれているということなので、あなたは超人気者ということになる。でも自分がそんなふうに誰かのことを常に考えていることなんてないだろう。

(この考え方いいな。道を歩いていて、誰もが自分を見てひそひそと悪口を言っている、といった妄想を抱くひとがいる。被害妄想のたぐいだ。実は、私も少し前、被害妄想が強い時期があった。しかし、今思えば、もし道を歩いているだけで、自分のことをあれこれ言われているとしたら、私、すげー有名人だな。ありえないな。)

 

ひとりでいるときも優しい言葉を使うことを習慣化させる。犬に対して花に対して。そうすれば別の誰かに対しても自然と優しい言葉をかけられるかも。

(普段から、「氏ね」とか「うざ」とか「ふざけんな」とかひとりごとを言っているとすれば、ふとした瞬間にそういった言葉を使いかねない。だから日頃から、言葉の取り扱いには注意した方がいいだろう。)

 

3.職場のモヤモヤ

話しにくい雰囲気を相手が作り出していることもある。(周りの方が未熟)だから、まず身近なひとに話しかけていくことが大切かも。

(わかる。話しかけんなオーラをめっちゃ出してくるひととかいますもんね。)

 

目標は、目に見える高さからでいい。できるだけ自分に近い人を目標にしてみるといい。

(自分より上の人と比べると、自分の力のなさに絶望する。そりゃそうだろう。まずは、自分より少し上かなって人と比べてみよう。)

 

4.自分のモヤモヤ

人から褒められても、素直に受け取らないのは、「お前は見る目がない」と言っているのと同じ。ありがとう、でいいいんじゃない?

(謙遜のし過ぎはよくないってこと。「あなたすごいね」と言われて、「そんなことないですよ」と言ってしまいそうになるけど、その言葉の底には「私はすごくないですよ、あなたの目は節穴ですか」という意味が内包していると捉えられかねない(まあ、まずないとは思うが)。だから、褒められたら素直に「ありがとう」と言えばいいんじゃないかな)

 

・気持ちが落ち込んだら、ここへ行けばすっきりするみたいなお気に入りスポットを見つける。

(神社とかね。そういう心のよりどころみたいな場所を開拓してみよう。)

 

・何もしない時間も、人生の大切な時間

(これはそう。ぼーっとするのも大事な時間だよ)

・過去を引きずったり、先の見えない未来が不安。だが、過去はもうすでに起こったことで、変えられない。しかし、未来を変えるために行動できるのは今しかない。

(未来の自分を変えたいなら、今の自分を変える必要がある。そういうことだ。世界は変えられないが、自分は変えられるはずなんだから。)

 

 以上です。