鈴木裕介『メンタル・クエスト』
人生ハードモード。
親ガチャ。
人生周回遅れ。
などなど、よく人生は「ゲーム」にたとえられます。
たとえられるどころか、「ゲーム」を心のよりどころにして、現実世界から目をそらそうとしているひとも多くいます(それがいいか悪いかは今の時点では述べません)
今回紹介する『メンタル・クエスト』は、「人生」を「RPG」にたとえ、自分を脅かす存在を「敵」にたとえたり、うまく生きる方法を「攻略」といったり、そのために必要な事柄を「キーアイテム」と呼んだり、もうゲーム要素がてんこもりです。
私はゲームに通じていない人間なので(ドラゴンクエストやファイナルファンタジーなどの有名作品は一度も遊んだことがない)、本書のよさを十全に紹介できずに終わってしまうかもしれないが、まとめていこうかと思います。
- 1.ハードモードを抜け出す最重要アイテムは「三つの信頼」
- 2.自分というキャラクターの「タイプ」を知る
- 3.頭に巣くう「見えない敵」に気づく
- 4.「自分のクエスト」を生きるための攻略ヒント
- 5.まとめ
1.ハードモードを抜け出す最重要アイテムは「三つの信頼」
①三つの信頼
「人生何とかなる」と思えるようになるためには、三つの信頼が必要です。
それは…
A自分は大丈夫(自分への信頼)
B他人は信頼できる(他人への信頼)
C世界は安全で、怖くない(世界への信頼)
A、Bは理解できると思いますが、Cは理解しづらいだろうから説明します。
世界への信頼がない状態とは、いわゆる見通しがつかない状態のことです。
ゲームに例えると「バイオハザードの街」のようなディストピア観。
というか、今のコロナ禍もいつウイルスが収束するかもわからない状態なので、今はかなり世界への信頼がない状態であるといえそうですね。
次の例を考えてみましょう。
「地元で迷子するのと、ブラジルの密林で迷子するの、どっちが不安?」
「インフルエンザに罹患するのと、未知なるウイルスに罹患するの、どっちが不安?」
当然、どちらも後者の方が「不安」です。
ある程度の予期があるからこそ、日々をつつがなく生きているです。
しかし、今のコロナ禍もそうだが、見通しのつかない状態というのは、人の心に不安をもたらします。今でこそコロナに関する情報が広がっていますが、コロナが出始めたときは未知なるウイルスとして非常に怖がられていました。(今や、もうコロナなんて恐ろしくないかのように人出が多い)
②予測誤差の原因
ずっとこの人といられるだろうという予測や、ずっとこの人と一緒にいたいという期待。しかし、それらは裏切られるときもあります。
筆者はこのような予期を裏切る出来事を「予測誤差」と呼んでいます。
私たちが生きていくことは予測誤差の経験の連続でもあります。たしかに予測誤差は快楽になることもありますが、予測誤差は痛みもともなうものです。だからなるべく小さい方がいい。予測誤差によって私たちはショックを受け、悲しみ、落胆し、そして驚く。それだけではありません。一定以上の予測誤差を経験すると自分の予期自体が信じられなくなります。
この「自分の予期が信じられない」状態こそが、まさに「生きづらい」状態です。
こんな危険な世界を生き抜く自信がないと感じたり、こんな裏切りばかりの世界は生きるに値しないと葛藤を抱える。これが「世界への信頼」がない状態。
世界への信頼がないと、すぐ近くにいる他人も怖く感じることでしょう。
しかし、だからといって対人関係を避けていたら、ますます他人との交流がなくなり、対人関係の中で必要な「スキル」を得られないことになります。そうなると、ますます他人が怖くなります。
「どこに行っても人とうまくいかなくてしんどい」
「こんな自分はダメなのではないか」
という不全感を募らせてしまいます。
自分の予測や感覚が信じられない危険な世界の中で、安全を確保して生き抜いていくためには、「他人のニーズ」を満たし続けるしかありません。
こうして自分のニーズよりも他人のニーズを優先し、「他人の人生を生きる」図式がなりたつ。そんな人生、どうですか? 献身的に生きることを、喜びに感じるひともいるかもしれませんが、それではいったい誰のための人生なんだってことになってしまうことでしょう。
ですが、そういうことが起きてしまうのは、「あなた(自分)のせい」ではなく、環境によるシステムエラーのせいなのです。
環境によるシステムエラーのせいというのは、要は「世界」が悪いのです。
世界、世界、世界のせいなのです。
そうは言いましても、何の解決にもならないと思いますので、次は「では、どうしたらいいのか?」ということを考えてみましょう。
③予期の修正
世界への信頼感を回復するには、「予期」を修正するしかありません。
人間は「自分がこう動いたら、周りの反応はきっとこうなる」という予測がうまくいく体験を積み重ねることで「ここにいても大丈夫だ」という安心を得ていくものです。
「どうせこうなるだろう」という悲観的な予測を持って行動してみたものの、周囲の反応がその予測より「いいもの」であることもあります。予測がいいほうに外れると、「あれ? そういうこともあるのか」と書き換えられます。そうした経験をもって、「世の中とはこういうものなのか」というふうに予測がリニューアルされていくのです。
過度に悲観的にも楽観的にもならず、現実の反応に基づいて自分の予期をアップデートし、精度を上げていくことで、予期誤差は減っていきます。
「話しかけた人が思ったより親切だった」「落とした財布が戻って来た」「努力が報われた」などの経験を積み重ねることによって、「世界は思ったよりも安全かもしれない」と感じることができれば、それが世界への信頼を取り戻すことにつながるのです。
そのためにはやはりTwitterなんかやらない方がいいのです。
Twitterでは「社会への愚痴」のツイートにあふれています。
「どこそこはブラック企業だ」とか「社会の仕組みは○○だ」とか「努力したが無駄だった」とか、そういったネガティブな情報が氾濫しています。
けっこう前にマツコ・デラックスが言っていたことを紹介します。
インターネット内の書き込みについて――
「100人中2人の批判を気にする必要はない」
だいたいそんな意味のことを言っていました。
98人の普通に応援しているひとはわざわざ「頑張れよ」とは書き込まないものです。
それと同じように、ホワイト企業に勤務するひとは自社がいかにホワイトなのかはわざわざネットで書き込むことはほぼないのです。心に余裕があるからでしょう。ですが、ブラック企業に勤めていると、自社がいかにブラックであるかめちゃくちゃ書き込みます。そうでもしないと精神を保てないからです。
だから、ネットに溢れるのは基本的には悪い情報なのです。
そういう情報を見ると、生きづらさを感じてしまうのです。
食べログとかでもそうでしょう。
店について何の不満も持つことがなかったら、わざわざレビューはつけないでしょうが、少しでも不快に思ったら、すぐに悪口レビューをつけることでしょう。その店を利用している客の割合として、何の不満も持たない方が多いというのに、レビューだけ見ると、不満に思ったひとの方が非常に多いという印象を受けてしまいます。
ですので、SNSで嫌な情報はなるべく見ないようにしましょう。
世界への信頼がどんどんなくなっていくに違いありません。
あくまで自分が生きているのは自分の周りの世界で、SNS上の世界ではないのですから。
④信頼と安心
信頼と安心には大きな違いがあります。
・信頼:相手がいい人であり、自分に好意を持っているから裏切らないだろうと、期待することを指します。つまり、相手の人間性や自分との関係性をポジティブにとらえ、相手を信じて関係性を結ぶのが「信頼」に基づいた人間関係だということになる。
・安心:自分を裏切ると、相手自身が損をするから裏切らないだろうと期待することを指す。
以降、こちらの意味での安心を“安心”と示すことにします。
集団主義的な社会のもとでは、対人関係における不確実性をなくそうとするために、相互監視や異端を制裁・排除するようなかたちで、お互いが“安心”できるようにしています。しかし、対人関係にはそもそも不確実性が伴います。その不確実性を排除しようとするのではなく、飲み込んだうえで関係を結ぼうとするのが「信頼」です。つまり、誰かを信頼するということは、“安心”に比べて裏切られるリスクが高い行為なのです。
そういった信頼と“安心”の違いをよく理解することが人生を攻略するキーとなりそうです。
⑤自己効力感と自己肯定感
自己効力感と自己肯定感という言葉があります。
・自己効力感:仕事で成果が出ているときや周囲の期待に応えられているうちは大丈夫だという感覚。“安心”の感覚に基づいた自信のことです。ですが、これは非常に揺るぎやすいもので、自分の状況や相手の状況、自分の能力の変化の影響を強く受けます。
・自己肯定感:たとえ成果を出していなかったり、周囲の期待に応えられていなくても自分は大丈夫だと思える感覚。信頼の感覚に基づいた自信のことです。
獲得すべきは「自己肯定感」です。
自己肯定感は「浮き輪」のようなものです。どんな絶望的なことがあっても、「自分は大丈夫」と思えていれば復活できるのですから。
⑥心の安全基地
自分を肯定するためには、「この人だったら、否定的なことを言わなそう」と思える人を探して、気持ちを伝えてみたり、頼ってみるしかないです。
自分を信頼するうえでも、よき友を得ることはとても大きな意味を持ちます。
自分への自信が揺らぎそうなときに「自分を否定しない」という安心感を抱ける相手がいることは、命綱になる。これが「心の安全基地」です。
安全基地をつくるために、リスクをとって自分のことを開示する勇気が必要となります。成熟した大人はそういった自己開示を聞いて、「自分を信頼してくれてこういうことを言ってくれたのはありがたいなあ」という気持ちを抱き、その信頼に応えたいと思うものです。(これを自己開示の返報性という ※返報性:相手から何かを与えられたときに、相手にお返しをしたいという心理)
2.自分というキャラクターの「タイプ」を知る
①自分のこと
A自分のことを深く知る
B自分がなぜ困難な状況に置かれているのか構造的に理解する
C自分を不幸に導く特定のパターンや思考のトラップの存在に気付く
Dパターンやトラップにハマらない、別のやり方を試してみる
以上のようなステップで自分のことを知ることができれば「メタ認知」スキルはなかなかなものだと言えることでしょう。
(メタ認知…自分が「こんなことを知覚している」「こんなことを考えているぞ」という認知を、ちょっとひいた目で見て、客観的に判断する能力のこと。以前ブログで「メタ認知」について説明した)
②三つのタイプ
生きづらさの克服のために、まず自分という「キャラ」を知る必要があります。実は、ほとんどのひとが「自分のことを正確に理解していない」のです。
さて、今から「生きづらさを感じている人が当てはまりやすい三つのタイプ」を紹介します。
1.うつになりやすい「真面目な英雄」タイプ(メランコリー親和型性格)
ルールや秩序を守る/几帳面/責任感が非常に強い/完璧主義/他者を重んじる/親切・律儀・誠実/衝突や摩擦を避けるために自ら折れる
一見優等生に見えますが、実はこういうひとは「SOSを出すことができない」のです。
秩序を重んじるあまりに変化に弱い/融通がききにくい/人に頼れない/うまく手を抜けない/他人の評価をきにしすぎる
他人に本気でヘルプを求めたことが一度もないとか、心身の限界までやってしまうとか。
対策方法は以下のとおりです。
㋐自分はストレス耐性が強いわけではないと自覚する
㋑相手が求める成果物のレベル感を確認しておく
㋒しょぼい頼み事でヘルプの練習をする(援助希求)
㋓他人の期待のみをエンジンとする運転をやめる(断る)
2.敏感すぎて生きづらい「魔法使い」タイプ(HSP)
あらゆる刺激に敏感に反応してしまう/相手の感情に引きずられてしまう/ひらめきや直感が冴え、危険察知センサーが強い/ひとりの時間、自分のペースが大事
HSPは、弱さや努力不足のあらわれではなく「生まれ育った気質」です。
だからこそ、無理に気質を変えるのではなく、その気質への理解を高め、有効な対応策を知っておくほうが、はるかに難易度が低いといえるでしょう。
生きづらさをうまく説明してくれるHSPという概念が浸透しているということは、自分の苦しみに輪郭が与えられるという意味で、「苦しんでいる人の心が楽になる」につながるのです。
HSPも他者からの強い刺激を直接浴びるような環境では、自分自身がもっている能力を十分に発揮できない可能性があります。HSPは、他者の傷つきにすぐに気づいたり、周りが気づいたり、周りが気づいていない危機にいち早く気づき、その対処ができる点において優れています。
誰も気づかないような小さな変化に気付いたり、感情を敏感に感じ取れることは、他者を助ける大きな力になることでしょう。
とはいえ、他者の気持ちに敏感に気づくからこそ、気を遣いすぎてしまっては、疲弊してしまう。だからこそ自分のストレス耐性の低さを自覚することも大切です。
※自分から変化や刺激を求める好奇心旺盛なHSS型もいる。
(人好きだけど、人疲れしやすい)
自分がどういう状況に置かれると(どういう刺激を受けると)、「つらい」と感じるかを正確に把握することがまず大事です。
(例)音や光、におい、カフェイン(感覚)→先天的
ストレスや環境の変化、頭痛や胃痛などの症状があらわれる(体質)→先天的
対人関係、気を遣いすぎる→後天的(環境的な要因)
3.「心の間合い」における「近接型・遠隔型」タイプ(愛着スタイル)
周囲の人たちとどんなつながり方を望むか、どのくらいの親密さが自分にとって快適と感じるかを左右する傾向のことです。
・安定型
他人と仲良くなり、頼ったり頼られたりする関係を築くことに抵抗がないタイプ
※常に安定的な愛情を供給されてきた
・不安型
常に相手から見捨てられるのではないかという不安を持っていて、いつも周囲に気を遣い、相手の反応に敏感になりがちな対応(恋愛モードに入りやすい)
※養育者の愛情が安定せず、優しくされるときもあれば、冷たくされるときもあるといった不安定な環境で育てられる
・回避型
ひととの積極的な交流を避け、べたべたせず距離を置いた対人関係を好む一匹狼タイプ
他人のことを「脅威」と感じ、人間関係で起きる葛藤を避ける。
ひととのつながりや温かさと無縁
※養育者がいない 情緒的なやりとりに乏しい環境の中で育てられる
愛着スタイルは後天的なかかわりによって変化します。
「4年間で愛着スタイルが変化するひとの割合は25%いる」と本書にはありました。
自分を一人の人間として尊重してくれる人がたったひとりでもいれば、その人との交流を経て、人間関係の作り方は大きく変わります。
(小池一夫の名言「人を傷つけるのも人だけど、癒してくれるのも結局は人」)
すべての人間に絶望しないことが重要ですね。
信頼すべき人物像/信頼すべきでない人物像を頭の中に少しずつ組み立てていきましょう。
【コラム】
○やりたいことやくざから逃げろ
「夢は何?」といった「やりたいこと」を執拗に尋ねる「やりたいことやくざ」。
大きな目標や夢を掲げるのがいいことだという価値観を一方的に振りかざしているにすぎないので、それよりも「自分にとって納得がいく、幸福度の高い人生を送ること」こそが重要である。
漫画『月曜日の友だち』にこんな言葉があります。
「何も足を踏み出していない状態で、それが『やりたいかどうか』を判断するのは難しい。『やりたいこと』は常に『やったことがあること』の近くにある」
3.頭に巣くう「見えない敵」に気づく
①不幸の「型」
本人が気づかない間に、不幸の「型」にはまっていることはしばしばあります。
生まれ育った環境によって、行動や思考のクセは自然と身についてしまうものであり、それはその人自身の責任とはいいがたいものです。
しかし、生育環境によって培った「不幸の型」をずっと持ち続けている必要もありません。根本原因である行動や思考のクセに自覚的になり、少しずつそのクセを直していけば、不幸の型に陥らない道を見つけることができるのです。
ネガティブな感情を感じること自体は悪くないのです。
戦うべきは エネルギーを奪い、不幸に導くような「行動・思考のクセ」です。
自然と生まれてくる感情自体を押し込めようとすると、心に負担がかかり、いずれ歪みが生じてしまいます。
「行動・思考のクセ」に自覚的になり、冷静に変えていくイメージを持ちましょう。
どうするのかと言いますと、そこで「メタ認知」が登場するのです。
自分が何かを感じて行動したときに、「自分は今、何を感じて、何を考えてこういう行動をとったのか」を自ら把握できる能力を持ちましょう。
「生きづらさ」という、よくわからない漠然としたしんどさの集合体を、対処可能な「課題」に変化させることができます。
②見えない敵
見えない敵というものがあります。これは厄介なことに負のパターンをつくる原因となり得ます。それを紹介したいと思います。
1.「べき思考」
こうしなければならないという思考
他者から押し付けられた「べき思考」に気づかないまま、苦しんでいる人はたくさんいます。
「部下が毎回会議にギリギリに来るのが腹立たしい」
なぜ?
「集合時刻の5分前には集合するべきだ」「部下は上司より早く来て準備をするべきだ」→「べき思考」が隠されている
人が怒る時というのは、自分が大切にしている「べき」が裏切られた時なのです。
自分を幸せにしてくれる、人生に本当に必要な「べき」は片手に収まる程度しかありません。「べき」とは、しょせん他人の価値観がインストールされたものにすぎないのです。
すべての「べき」は目玉焼きに何をかける「べき」かと同じ次元の話です。
そう考えると、ちっぽけだと思うでしょう?
「べき」は強迫観念にとらわれやすいので、「~するのが趣味だ」と頭の中で変換してみるなどして、「べき」思考に陥らないようにしましょう。
2.反芻思考
自分の欠点や不安、過去の失敗やつらい出来事を、何度も何度も繰り返し頭の中で考え続けてしまうこと
なんとなく「建設的な振り返りをしている」ように思ってしまいますが、それ「勘違い」です。
今後の自分に活かすために反省しているつもりが、気がつくと「自分のだめさ」だけに焦点が当たってしまっているのです。
自己批判と自己否定は異なります。
深い洞察をすることなくただ「自己否定のループ」にはまり込んでいるのです。まった
「なぜ自分は~なのだろう」系の問は、第三者とやったほうが、はるかに生産的です。ですので、内省の場に第三者を用意し、その思考のめぐりが妥当かどうかのツッコミを入れてもらうことで、初めて建設的な「自己批判」ができるものです。
反芻は、過去と未来が大好物なのです。落ち込んだ「今」の気分を「過去」や「未来」と結びつけることでネガティブ回路をつくっているのです。
ですが、必要なのは「今」の身体感覚を感じることです。その方法として、瞑想・ヨガ・深呼吸・有酸素運動などが効果的だと言われています。
3.自責思考
自分のせいだ、と思うこと
自分の責任はどこまでで、どこからは責任を負うべきではないかのライン(境界線)をしっかりと決めておきましょう。
(例)職場の仲のいい同僚のミス(自分は手伝っていない)
→自分は手伝っていないのだから、彼の責任である。(他者の問題)
しかし、今度、自分が手伝ってあげようと思う。(自分の問題)
上記の場合、他者の問題と自分の問題をうまく線引きできていると言えそうですね。
4.完璧主義
二分法的思考とも言い換えられます。
例えば、「白と黒」「善と悪」というふうに二者択一的にとらえようとしたがる性質のことです。つまり、曖昧を嫌っているわけですね。
この考え方を持っているひとは、自分の正しさを過大評価しやすく、攻撃性が高くなる傾向があります。自分の正義のおしつけ、相手の事情を察しできない、自分も肯定できない、どれだけがんばっても「よくできた」と思わない、と、とにかく七面倒!
かといって完璧主義を脱するのは難しいことです。
不幸中の幸いを積極的に見つけていく、つまり、悪い人にもいいところはあるんだよといった見方をしていくことが対策方法でしょう。許せないと思った相手に対して、相手の立場ではこう見えていたのかもしれないといった冷静的な見方ができたら、いいことでしょう。しかし、いきなりこう考えられるようになるのはまずないので、先に述べた「不幸中の幸い」を積極的に見つけていくことを続けていきましょう。
5.理想化
相手の人間性を深く理解しないまま、こちら側の不足を埋めてくれる存在として、都合のいい理想像を相手に重ね合わせる行為のことです。
だから、幻滅もするのです、「憧れ」と「幻滅」はセットです。表裏一体です。
「100%幻想」という言葉があります。「この世のどこかで、私のすべてを理解してくれる人がいるかもしれない」という考え方です。しかし、そんなひと世の中には存在しません。つまり、存在しない「100%の相手」を求めてしまうのはよくないのです。
世の中には、きっちり完璧に理解してもらわないと気がすまないという人がいます。そういう人は、完璧に理解してもらえなくて、「そうじゃない!」とフラストレーションをためてしまう一方です。これはまるでピカソの抽象画を見せて、理解をさせようとするもの。かなり難易度の高いことを相手に期待してしまっているのです。
相手への期待値は60%程度でいいのです。
60%も理解してくれたら、もう御の字です。
6.見捨てられ不安
親密な人間関係が断ち切られ、見捨てられてしまうのではないかという不安や孤立感のこと。
見捨てられ不安を持つと、以下のような行動が見られます。
・狂気じみた努力➡自分がへとへとになるくらい人に尽くす
・試し行動➡あえて相手の嫌がる言動をとり、相手が離れないか確認する
・断れない、離れない➡不誠実な相手でも
・否定的にとらえる➡相手にも、自分にも
見捨てられ不安から、恐怖により、激しく相手を非難したり暴言を吐いたりします。
これは前に述べた100%理解してくれる人が存在するという幻想を持ってしまっているからです。相手が自分とは異なる人間である以上、信頼度が100%になることはありません。さっきも書いた通り60%も理解してくれたら御の字です。
とはいえ、見捨てられ不安を持つ人は依存が強いため、60%理解してくれるようなひとを三人ほど持つことが求められるでしょう。
7.自己憐憫
自分で自分をかわいそうと思う気持ち。「見捨てられ不安」「理想化」「完璧主義」の融合のこと(本書では「融合」ではなく「キメラ」と呼んでいる)。
端的に言うと、「自己否定への酔い」です。
もっとしっくり言い方をすれば、「悲劇のヒロイン気取り」(少々、言葉が悪い)。
その心理の裏には、「希望を持った状態から絶望の淵に叩き落されるよりも、絶望的な気持ちのまま不幸な出来事があった方が、つらくない」という思いがあるのです。
不幸への依存。
しかし、皮肉にもこれがハードモードの人生を生き抜くための処世術になってしまっています。
「自己憐憫」の人は周囲の人間を「強者と弱者」にカテゴライズします。
自分が「弱い存在」であろうとするために、自分に対し「強者」を対置するのです。そうしないと、不幸への依存ができないからです。
自分はダメだと思っている最中、誰かから助け舟を出してもらうと、そのひとをしばらくは頼ることになります。「自己憐憫」がめんどくさいのはここからで、その助け船がうまく機能しなかったら、助けた人を「悪者」にしてしまうのです。
さらに、自己憐憫のひとは、自分の課題を放り捨てたとき、「自分は不幸である」ことを免罪符に、助けてくれなかったひとに対し、「あなたが悪い」といったふうに責めるのです。まさに究極の他責思考だといえることでしょう。
弱者のふりして、弱者の正義をふりかざし、強い相手を操作する。
まったくもってひどい話です。
しかし、「自己憐憫」はいわゆる「酔い」みたいなものなのです。
「自分はだめな人間で、不幸な人間で、これからも不幸」という思考がずっと離れないでいる状態のことです。
ならば、その認識を変えるしかありません。
「自分は変えられないと思っていたけど、もしかしたらこれは思い込みかもしれない」
というふうに。
また、「今、自分は本当に変わりたいと思っているか」を尋ねるのもいいでしょう。
「ここまで生き延びてこられた今、この先もずっとそうして不幸の物語を生きていきたいのかを、もう一度考えてみよう」
というふうに。
「できるか、できないか」ではなく、「これから、あなたがそうしたいか」と。
しかし、自分の中にある全部を刷新する必要はありません。
「変化すること」と「変わらなくてもいいから、受容すること」をしっかりバランスよくとっていくのです。
【コラム】
「ありえない!」って思うような深刻な事態が起こったり、なんとも理不尽なことを言ってくるひとがいたりすると、逆にこうつぶやいてみましょう。
「逆に、面白い」
特に理不尽な言いがかりをしてくるひとは「こんな考えのひともいるんだ」と思うのがいちばんストレスがかからなくていいものです。
また、雑談のネタが増えたとか、ブログに書くネタが増えたとか、創作のインスピレーションが湧いたとか、そんなふうに思えるならなおいいでしょう。
4.「自分のクエスト」を生きるための攻略ヒント
①得るべき仲間
得るべき仲間は、二タイプあります。
ごめん、ゲーム用語よくわからないんで、現代語訳(?)します。
白魔導士:「どんなときでもあなたの味方でいてくれる、安心を提供してくれる人」
こういう人は直接利害関係のない人間関係の中から、健全な依存先候補を探すこと。利害関係のある相手だと弱みを見せると不利益を被るかもしれないという心理的ハードルがあり、自己開示が難しいからです。
精神科医の松本俊彦先生はこう言います。
「信頼できる大人は10人のうち3人くらいしかいないから、1人に話してダメでも8人目までSOSを出し続けてほしい」
今目の前にいる人は、もしかしたら今までの大人とは違うかもしれないという可能性を捨てずにいてほしいということです。
次に、黒魔導士についてです。
黒魔導士:「自分の課題を明らかにしてくれるひと。」
愛のある批判者とも呼ばれます。
人間の心を知悉していて、こちらのことを考えたうえで、言いにくいことを正直に伝えてくれるというコミュニケーションリスクをとってくれるひとのことです。
(自分、絶対黒魔導士にはなれないや。いつだって言葉の使い方に気を付けて、率直に、歯に衣着せぬ物言いができないんです)
こういうひとはなかなかいません。
いわゆるレアキャラです。
しかし、もしそういうひとが身近にいれば、大切にしないといけません。
課題に向き合うということは「できていない」ということを認めることであり、それには勇気と謙虚さが必要です。謙虚であるとは、自分の足りないところや至らないところから目を背けないことであり、「弱点」を認めることです。
変われる人というのは、誠実なひとが多いです。
自分に誠実になるとは、自分の不完全さを受け入れることなのです。
「自分のことは一番自分がわかっている。だから、口出しするな」
そう声を荒らげてしまうのは、心の余裕がない証拠です。もしかすると、じつはその指摘が当たっているのかもしれません。
②分人主義
平野啓一郎氏が提唱した「分人主義」という概念についてです。
分人主義:人間の基本単位を「個人」ではなく「分人」の集まりだと考える概念
ひとは接するひとによって仮面を使い分けるものです。
家族の前のときの自分、会社の同僚の前のときの自分、恋人の前のときの自分、学生時代の旧友のときの自分
おそらくですが、会う人によってその「自分」を使い分けていないでしょうか?
その「自分」がいわゆる「分人」なのです。
一貫性がないわけでも、嘘をついているわけでもなく、全部同じ「自分」であり、違う「自分」なのです。
自分が嫌い。
そう思っているひとはいるでしょう。
しかし、どんな「自分」も嫌いなんでしょうか。
たとえば、学校でふるまうときの自分は嫌いでも、放課後の部活での自分はうまくいっている、とか、そういうのがあれば、その放課後の自分を足場にすればいいのです。
そういう理論で、自分のことが嫌になるような相手とは距離を置き、「この人といっしょにいるときの自分は好き」という人間関係の割合を増やすことだってできるでしょう。
そういった考え方ひとつで「自己嫌悪」から脱することができるのではないでしょうか。
③小確幸
村上春樹『村上朝日堂ジャーナル うずまき猫のみつけかた』において、こんなことばがあります。
小さいけれど、確かな幸せ
略して「小確幸」。
道端の花がきれいとか、お風呂が気持ちいとか、そんなレベルの小さな幸せを見つけていこうということです。
ソシャゲのガチャの沼にはまってしまうのは、大きな快楽を求めようとしているわけですね。たしかにそれが得られたときの快楽は最高なものでしょう。しかし、得られなかったら?
失意のどん底、自己嫌悪。
そこまではいかないにしても、気分はだだ下がりですよね。
だから、大きな快楽は求めなくていいから「小確幸」を求めなさい、という提案なのです。
④批判との戦い方
批判とどう立ち向かうか。
ポイントは、「大事にすべきかどうかではなく、あなた自身が大事にしたいかどうか」でしょう。あんまり大事にしなくてもいいとか、合わないなあ、とか思うのであれば、わざわざ批判に立ち向かう必要はありません。
そう考えると、ネット上の匿名の批判の大半は、真摯に向き合うべきではないということがわかるでしょう。
たとえば、自身のツイートに批判的なリプが送られてきたとします。
そもそも、こっちは頼んでないのに、なんで? と思うのであれば、わざわざそれに構う必要はないでしょう。
「同じ土俵に立っていない相手とは議論できないし、話し合う余地もない」
つまり、そういうことです。
「地獄への道は善意で敷き詰められている」
というヨーロッパのことわざがあるように「善意」というのは場合によっては、とてもめんどうなものになるのだということです。
⑤コーピング
コーピングとは、しんどくなったときに自分を助けるために自ら行動することです。
簡単な例を出すと、イライラして、壁を殴るなどの行動がそれです。
コーピングのレパートリーとしては以下のことが本書で書かれてあった。
・裸足で海辺を歩き、水や砂の感触を感じる
・近くの寺社仏閣に行き、深呼吸や瞑想をしてみる
・髪を切る、いらない服を捨てる
・賑やかな曲をかけ、部屋でダンスをする
・人から聞いた「自分のいいところ」をメモにまとめておき、気分が落ちた時に読む
また、自傷行為の代替案は以下のとおりです。
・自分の手で氷の塊を持ち、痛みが感じられるほど強く握り締める
・腕にはめた輪ゴムをはじく
・スポンジのボールや丸めた靴下を、できるだけ強く壁に投げつける
・枕に顔を埋めて、できるだけ大きな声で叫ぶ
・切りつけようと思っている場所を、赤のマジックやマニキュアで傷のように描く
→その後、黒のマジックで縫い目を描く
・自分が憎んでいる相手や、傷つけられた相手に、恨みの手紙を書く。
→その手紙は出さずに破って捨てるか、後で読むために保管しておく。
⑥自己決定
ハードモードな人生を歩むにあたって、非常に重要なキーポイントです。
生活の中で自分で決めるという経験をなるべく増やすということです。
人間の幸福を規定するものは「お金」ではなく「自己決定」なのです。
逆にいえば、相手の自己決定を奪うことは、相手の幸せを奪うことに等しいのです。
人生はRPGに似ていますが、RPGにあらゆる選択肢があり、そこにはどれかひとつ正解というものがありますが、人生には「正解の選択肢」が存在しません。
この世に絶対解などないのですから、誰かに選択を委ねたりするなどちゃんちゃらおかしいということがわかりますでしょうか?
必要なのは絶対解ではなく納得解なのです。
苦悩や迷いのある中でも、その都度現れる選択を、自分自身で納得しながら決定していく。これがうまく生き抜く秘訣だと、筆者は考えています。
5.まとめ
人生はハードモードです。
常に予期せぬことが降り注いできます。
幸福に永続性はないし、嫌なことばかり身に起こるものです。
何かを得たと思えば、すぐに何かを喪失します。
そんなふうに幸せが不安定な時代だからこそ、そんな現実から目をそむけようとアニメやゲームにはまるのでしょう。
私の場合、現実世界がいやだと思えば、すぐにこうやってブログなどに文章を書いたり、小説にふけったり、芸人の漫才やコントをみたりしています。最近、櫻坂46への愛が戻ってきています。どれも自分がつらいときの心の支えになってくれています。
物事を合理的に考えるひとがけっこういますが、そういうひとは私たちの精神的支柱である娯楽を無駄だといって切り捨てようとします。
まったくひどい話ですよね。
人生はハードモードとはいえ、娯楽にあふれている今の時代、その功績は偉大なものではないでしょうか?
ですが、コロナ禍は私たちの娯楽を奪いつつあります。
いつ収束するか見通しのつかない不安定な時代。
そりゃ、この世界への信頼はなくなってしまいますよ。
こういう時代だからこそ、もっとひととのつながりは重要視するべきなんですよね。
SNSの普及で、友だち関係が希薄なものになっていると言われています。
ネット上のつながりではなく、もうすこし肉薄というか生というかそのリアルなつながりを持つことができれば、案外、人生をうまくひょいひょいと生き抜けるのではないでしょうか?
かくいう、私には心の安全基地となるようなひとがいないのですがね……
働くって何?
なぜ働くの?
この問いに対して、いろんな答え方ができるでしょう。
今回は、「なぜ働くのか?」という大きな問いをテーマに、つれづれなるままに記述していきたいと思います。主に、高校生・大学生に向けた話になると思います。
1.仕事って何?
そもそも、「仕事」とは何でしょう?
この問いについて、『なぜ僕らは働くのか』という本が簡潔に答えてくれています。
仕事は誰かの役に立つこと
私たちの生活はたくさんの人に支えられています。
たとえば、あなたがコンビニエンスストアで買い物をしたとき、そこで働いている店員さんを目にすることでしょう。
しかし、もっと視野を広げてみましょう。
コンビニに商品を届ける運送会社。商品を開発する会社。商品を生産する工場。その工場の部品を製造する工場。
そういったところで働く人たちがきちんといることで、私たちはコンビニで買い物をすることができるのです。
つまり、私たちの生活はたくさんの人たちに支えられていると言えます。
また、あなたが何かをしたいと思ったとします。
なんでもいいです。
例えば、映画が見たいとかでいいでしょう。
映画を見たいと思えば、電車に乗って、映画館に行く必要があります。
その過程の中でどれだけの「人の支え」があるでしょうか?
駅で働く駅員。電車の運転士、車掌。映画館で働くスタッフ。映画の制作会社で働く人たち。
そういった人たちがいなければ、「映画を見たい」と思っても、その願いは叶いません。
やはり、私たちの生活はたくさんの人たちに支えられているのです。
見方を変えれば、これは「私たちは助け合いの中で生きている」ということでもあります。
つまり、私たちは助け合いのネットワークの中で生きているのです。
こう考えると、「仕事」が誰かの役に立つことだというのは理解できるでしょう。
同時に「働く」という行為が「助け合いのネットワークの一員になる」ということだというのも理解できるでしょう。
※
内田樹『期間限定の思想 「おじさん」的思想2』では、こんなことが書かれています。
仕事の本質は他者を目ざす運動性にある。
仕事を通じて私たちがしようとしているのは「パスを出す」ことである。多彩で予測不能の攻撃の起点となるような絶妙の「パス」を「次のプレイヤー」の足との送り込むこと、それだけである。
少しややこしい言い方をしていますが、要は仕事は「自分のため」ではなく「他者のため」にするのだということです。
内田さんは仕事を「自己実現のため」だととらえている若者を「思慮がない」とこきおろしているくらいです。同氏の著書『困難な成熟』においても、以下のようなことを言っていました。
今の若者は「やるべきこと」「やりたいこと」に関心を持つけれど、自分が「やれること」にはあまり関心を持ちたがらないようです。しかし、これからの世の中で生き残るために必要なことは、「自分は何をやれるのか」を知ることではないでしょうか。
「自分がやれること」とは何でしょうか?
それは「何かを欠如させて困っている人に出会ったら、ためらわずにその懇請に応え」るということです。
この行為を内田氏は「民話の主人公のような生き方」だと述べています。(王女が拉致されると、王女を取り戻そうと主人公が立ち上がる。こういったストーリーの型が民話ではよく見られることから。)
「あ、ちょっと、自分がやりたいことがあるので……」といって退場する主人公なんていないでしょう?
そういったところから「自分がやりたいこと」にとらわれて生きてはいけないというのが理解できるでしょう。
内田氏の「仕事」に対する考えをまとめると以下のようになるでしょう。
・仕事をするとは、他者を目ざしてパスを出すこと。
・自分がやりたいことを優先するのではなく、助力に応じるといった民話の主人公的な生き方をすべきだ。
難しい言い回しだが、結局は「働く」という行為が「助け合いの精神」の上で成り立ち、他者との関わり合いの中でしか存在しない、ということを意味しています。
※
内田樹氏の著書からの引用は、あくまで「働く」という行為が「助け合いのネットワークの一員になる」ということだということへの理解促進のためにしたのだが、かえって「働く」ことに対しての嫌悪感を増長させてしまったのではないかと危惧しています。
「自己実現」とか「自分探し」とか言っていないで困っているひとを助けるという「自分がやれる」ことに焦点を置きなさい!
そういった説教のように聞こえてしまったのではないでしょうか。
ですが、実際、仕事とは「誰かの役に立つ」ことです。
仕事がそういうものである以上、あなたが仕事をするというのは「誰かの役に立つ」ことをしている状態になります。
誰かの役に立っていないよりかは、誰かの役に立っていると思えた方が、人生は豊かになるのではないでしょうか?
誰かの役に立っている以上、「自己実現」「自分探し」はほんとうに心に余裕があるとき考えればいいと思えないではないでしょうか?
2.自分の適性を知るために
自分の強み・弱みをどうやって知ることができますか?
藤原博之『キャリアデザイン入門』にはこう書いてありました。
「働いたこともないのに、強み・弱みがわかるはずがない。自分に何が向いているのかがわからないというのが普通だ。20歳過ぎの若者が自分の強み・弱みを理路整然と語る姿を見ると、違和感を覚える。」
では、どうしたらいいのでしょうか?
藤原氏はこう答えています。
「わからないから動くんだ。わからないといって立ち止まっていては、何も見えてこない。すでに働いている先輩の話を聴いたり、会社紹介のイベントに出席したりして、情報を集まる。すると、だんだんと自分がやりたいと思う仕事が見えてくる。」
「自分に向いていないと思っていた仕事が、じつは自分に向いていたということは、しばしば起こる。こんな先輩がいた。その先輩は、自分は話すのが得意ではないので営業向きではないと思っていたが、会社の人事異動で営業部に配属になった。仕方なしに営業という仕事に取り組んだところ、その面白さが見えてきた。営業とは、ものを売る仕事ではなく、お客さんの問題解決をお手伝いする仕事だということに気づいたからだ。お客さんの声をしっかり聴いて問題点を明確にし、その解決のために自社製品の利用方法をご紹介したら、とても喜ばれた。」
つまり、何ごともやってみなければわからないということです。
自分が今まで好きではなかった、興味がなかったものだったのに、急にそれが好きになるといった経験はないでしょうか?
私はあります。
それは小説です。
高校生までずっと本が大嫌いでした。文章を読むことが大嫌いでした。
しかし、大学二年生のとき、とある講義で小説を読まなければいけない課題があり、苦心して読み続けた結果、小説を読むことへの抵抗感が薄れていったのです。
抵抗感が薄れたばかりではなく、小説が好きになっていたのです。
もしかすると、嫌いだと思っていたことをやり続けると好きになるということが起こるかもしれません。
私にはほかにもそのような経験があります。
私は教育実習で生徒たちとまったく関係をつくることができませんでした。
もともと、勉強が好きだから教師になろうと考えたのであって、生徒との関係作りに関しては正直苦手だとか嫌だと思っていました。
しかし、一年以上、高校で教員として勤務しているなかで、生徒との関係をつくることを「楽しい」と思えるようになり、生徒のために何かやってやりたいと思えるようになりました。
引用した藤原氏の話のなかでも営業が苦手だと思っていたひとが登場していますが、そのひとは何度も仕事に取り組むうちに、その楽しさを見出しましたが、これは嘘ではなく、ほんとうにある話なのだと私自身、経験的に理解できます。
よく入社したばかりの新卒社員がすぐに辞めるといったことが起こっていると話に聞きます。その理由が「ブラックだから」というならば、今すぐやめるべきだとは思うのですが、「自分に合わないから」という理由もけっこうあるそうです。
今でこそ、教員をやりたいという思いがある私ですが、去年の冬くらいまではわりと「転職したい」と思っていました。
その理由は、「自分には合わない」「別の道があるのではないか」と思っていたことです。
授業がうまくいかず、生徒との接し方をどうすればいいかわからないと悩んでいた時期で、「大学職員?」「大学の教授?」「フリーランス?」「予備校講師?」と身の丈に合わない夢想ばかりしていました。まったく恥ずべきことだと思います。
「石の上にも三年」ということわざがります。
このことわざをよく私の勤務しているベテランの先生も使います。
就職して、とりあえず3年間その仕事に取り組んでみることで、自分にその仕事があっていないかどうかわかる、というものです。
一年も満たないうちに「自分に合わないから」と思ってしまうのは、おかしなことなのです。一年ぐらいでは自分がその仕事に合っているかどうかなんてわかりません。そんなふうに考えているようでは、転職先の仕事をしていても同じことを言い出すことでしょう。
そもそも面白い仕事などありません。
しかし、仕事を面白くすることはできます。
たとえば、営業職。
なかなか契約をとることができない日々は楽しくなく、面白いと思うことはないでしょう。しかし、初めて契約をとることができると「うれしい」と思います。そして、もっと契約をとるためにコミュニケーション術などを勉強したり、話し方に気を付けたりすることで、営業スキルを上げ、そして成果をどんどん上げていくことで、ますます「うれしい」と思いますし、「やりがい」を感じます。
そういった「うれしい」「やりがい」を得られないまま、「自分には向いていない」と早々と見切りをつけ、仕事をやめてしまうのはもったいないことだというのは理解できることでしょう。
仕事の面白さは、働いてすぐにはわからないことが多いのです。
働き始めがうまくいかないのは当たり前です。
しかし、仕事がうまくいったこともない段階で、仕事の一部しか知らない段階で、退職してしまうのはやはりもったいないことでしょう。
とはいえ、適当に仕事を選ぶのもいけないことです。
ある程度、自分に合った仕事とか、興味のある仕事とかをセレクトします。
では、次は仕事の見つけ方について書いていきましょう。
3.仕事の見つけ方
「好き」や「得意」、「やりたいこと」をベースに仕事を探すといったことが一般的でしょう。『なぜ僕らは働くのか』を参照にそれらについて考えてみたいと思います。
①「好き」なことから仕事を見つける
からだを動かすのが好き。
本を読むのが好き。
数学が好き。
いろんな「好き」があると思います。
そんな「好き」を入り口にして思い浮かんできた仕事について、本を読んだり、大人に聞いてみたり、インターネットで検索したりして、深く調べてみるといいでしょう。
この「深く調べる」というのは大事な作業です。
たとえば、「サッカーが好き」というひとが自分のやりたい仕事を考えるとまず真っ先に「サッカー選手」と言うでしょう。しかし、「サッカーが好き」なら「スポーツトレーナー」でも「スポーツ記者」でも「サッカーの用具開発者」でも「クラブチームの広報」でもいいわけなのです。
しかし、真っ先に「サッカー選手」を思い浮かべてしまうのは「好き」の気もちを活かせる仕事がもっとたくさんあるということを知らないということです。それはつまり自分の世界が狭いということなのです。
私が就職を考える際に「教師」以外の夢がなかったのは、私の世界がとにかく狭かったからです。「教師」という仕事は誰にとっても身近な存在です。小学校、中学校、高校と進学すれば、必ず接する存在です。
実際、ベネッセが調査した「中学生のなりたい職業ランキング」では、男子は「学校の先生」が一位にランクイン、女子は「保育士・幼稚園の先生」が一位、「学校の先生」が三位にランクインしている。
ほかにもランキングでは「医者」「警察官」「建築家」「薬剤師」などの身近な職業ばかりが見られます。
(高校生も「看護師」「保育士」「薬剤師」「高校教諭」などが上位にランクインしています。また、「システムエンジニア」「プログラマー」などの中学生では見られなかった職業も上位にランクインしています。これは高校生にもなると、職業に関する見識が広がっているという証左であると思います。)
近年、「YouTuber」になりたいって子が増えているのは、YouTubeが彼らにとって非常に身近な存在だからと言えることでしょう。
自分の狭い世界を広げるためにも、しっかりと情報を集めることが必要だと思います。
しかし、今の世の中、逆に情報が多すぎて集めにくいでしょう。
じゃあどうすればいいのでしょうか?
「好き」をベースにした情報収集をすればいいのです。
好きの周りにある仕事を、いろいろと調べてみると、「この仕事、面白そう」と思うものが見つかることもあります。
今の時代、スマホ一つでいろんなことを調べられるのですから、インターネットで検索したり、いろいろな動画を見たりして、いっぱい情報を集めましょう。ほかにも外を出歩いて、働く人たちを見たり、図書館で本を読んだりして、とにかく情報を集めましょう。
そういった情報収集は、そのひとの世界を広げてくれると思います。
今まで「好きを仕事に」と語っておきながら言うのは恐縮なのですが、逆に「好き」なことに縛られすぎるのもよくないことです。たとえば、「野球が好き」だからといって、仕事を「野球関連」に絞ろうとしなくていいのです。「野球が好き」なら趣味で野球観戦、草野球を楽しめばいいのです。趣味は趣味、仕事は仕事。絶対に「好き」を仕事にしないといけないというルールはありません。
②「得意」なことから仕事を見つける
仕事とは「誰かの役に立つこと」ですので、仕事の本質は「自分が得意なことを活かして人の役に立つ、自分の性格的に向いていることを活かして社会に貢献する」ということなのです。たとえば、英語が得意ならば「ツアーコンダクター」「通訳」「ホテルマン」などの選択肢がありますが、どれも英語が得意という長所を存分に発揮できる仕事です。
「得意」なことを考えると、どうしても「自分には得意なことがない」と思ってしまうひとがいます。
そこで以下の漫画を紹介したいと思います。
特技を言えない女子大生の話(1/6) pic.twitter.com/EQTr7xuiQr
— 奥灘幾多 (@hitotoseshiki) December 26, 2020
「私がやっていること全てにおいて周りに上位互換がいるからさ 特技とは言いにくいんだよね 趣味ですとなら言えるんだけど」
いわゆる主人公は「完璧」を求めてしまっているのと「自己肯定感」がきわめて低いということがうかがえます。その性格は自分だけでなく周りをも嫌な思いにさせてしまうということなのです。
「特技」というのはそんなに重く考えることじゃないのかもしれません。
それと同じように「自分の得意なこと」なんて何でもいのかもしれません。
私はテニスを小学生のころからずっとやってきましたが、私よりも何千倍もうまいひとたちがゴロゴロいるのを知っていますので、今まで「テニスが得意」とは言ったことがありませんでした。しかし、(少しスケールが壮大ですが)全人類の中で、テニス人口を考えると、私は「テニスがうまい」部類に入ることでしょう。
テニスが得意、ルービックキューブが得意、文章を書くのが得意……
なんでも「一番」を求めようとしてしまうと、一生「得意」は見つからないのです。
もっと気軽に「得意」を見つけましょう。
なんでもいいです。
勉強が得意、モノをつくるのが得意、作文が得意、みんなを笑わせるのが得意。
なら、その「得意」を活かせるような仕事を探してみましょう。
どうしても、自分では「得意」を見つけられそうでないなら、誰かに見つけてもらいましょう。
近所の人に「いつも弟のことを気遣っていて、面倒見がいいね」と言われたら、自分は「気遣いが得意」とわかりますし、先生から「作文よかったぞ」と言われたら、自分は「文章を書くのが得意」とわかります。
このように多くのひととのかかわりの中で、自分の長所を見つけてもらいましょう。
誰かからそう評価されることで、もしかすると「自分にも得意があるんだ!」と自己肯定感が上がるきっかけになるかもしれません。
ほかにも、有名な方法として「リフレーミング」というものがあります。
短所を長所に言い換えるという方法です。
例えば、「諦めが悪い」ならば「忍耐力がある」と言い換えられますし、「とても神経質」ならば「よく気がつく」と言い換えられます。
自己肯定感の低めなひとは自分の悪いところばかり見つけてしまいますが、それは見方を変えれば「自分の悪いところを自分のいいところに言い換えるチャンス」をいくつも持っているということです。
③やりたい仕事の見つけ方
やりたいことを見つけるためには、とにかく情報を集めるのです。
これに尽きます。
外に出て、いろんな職業の人を観察するのもいいですし、仕事が関連する漫画や小説を読むのもいいでしょう。
ちなみに仕事が関連する小説を少し紹介しますと、
池井戸潤『鉄の骨』→ゼネコン
木宮条太郎『水族館ガール』→水族館
瀬尾まいこ『図書館の神様』→高校教師
自分が「何か気になるな」とか「なんかこれ面白いぞ」と思ったことの裏側に、どんな仕事があるか調べてみましょう。
誰かが「これは面白い」「これは面白くない」と判断したものをそのまま鵜吞みにしてはいけません。「面白いと思うこと」「興味を持つこと」は人それぞれ違いますからね。
④好きなことは仕事にできない?
とはいえ、「好き」と「やりたい」だけではやっていけないのが、事実です。
どんな仕事であれ、「好き」や「やりたい」をすぐに実現できると思わない方がいいでしょう。長い目で自分を見て、まずは目の前にある仕事を一生懸命するのがよいでしょう。
前にも書きましたが、仕事を面白くすることはできます。
仕事を面白くすれば、その仕事を「好き」にすることができます。
『なぜ僕らは働くのか』に書いてあった話をご紹介します。
オシャレが好きでファッション業界に興味があったGさんですが、仕事は小学生向けの参考書の編集職についていました。新しい参考書の企画を考えているときに、「自分が小学生だったらオシャレな参考書が欲しい」と思ったGさん。ファッションブランドとコラボレーションした参考書を企画し、大ヒットしました。
このように、自分の仕事に「好き」を混ぜ込んで成功する事例もあります。
また、趣味でブログを発信し続けていたら高収入のブロガーになったり、趣味で城廻りをしていたら城の評論家になったり、可能性としてはかなり低いが、今の時代、まったくありえないわけではないでしょう。
そう考えますと、大人になっても「好きなこと」を突き詰めた方が、人生が豊かになると言えることでしょう。
4.幸せに働くって?
姜尚中『悩む力』にて、こんな例示がありました。
かなりの資産家の息子さんがいて、突然父親が亡くなったため、一生食べていくのに困らない遺産が入りました。おかげで、その方は四十歳近くまで、仕事ではない学問の研究をして暮らしてきました。
果たして、この資産家の息子さんが幸せに暮らせたかというと、実はそうではないのです。息子さんはずっとコンプレックスの塊だったそうです。
どんなコンプレックスかと言いますと、それは「自分は一人前ではない」という意識だそうです。
要するに、「働かない」と、他者から承認されること、ねぎらわれることがないため、そのことを負い目に感じてしまうのだということです。
「働く」という行為はコンプレックスを抱えないため、というのはやや消極的な理由すぎるため、もう少し好意的な見方をすると、「働く」という行為は誰かから感謝されるため、とでも言っておこう。誰かから感謝されるというのは、誰かの役に立っているという証拠です。誰かから感謝されるとうれしいし、誰かの役に立っていると感じることは幸せだと思います。
こんな例があります。
建築現場でレンガ積みの仕事をしている3人組がいます。
彼らに「何をしているのですか?」と尋ねると、ひとりは「レンガを積んでいる」とこたえ、ひとりは「レンガを積んでお金を稼いでいる」とこたえ、ひとりは「レンガを積んで多くの人が喜んでくれる教会を造っている」とこたえたそうです。
誰がいいとか悪いとかではないですが、やはり最後のひとが一番仕事に対するモチベーションもあり、幸せな気持ちをもって働いていることでしょう。
自分の仕事が誰かの笑顔をつくることができる、と想像しながら働ける、それは理想なのかもしれませんが、やはりそうでありたいですよね。
さて、仕事上つらいことはたくさんあります。
つらい、と感じてしまうのは、もしかすると、そのひとの行動に問題があるのかもしれません。
例えば、以下のような行動が仕事でうまくいかない例です。
・やる気が出ない
・人任せにする
・考えず場当たり的に行動する
・自分さえよければいい
・くよくよ悩み続ける
・横柄で成功すると調子に乗る
・完璧な人間であろうとする
当たり前ですね。
以上の欠点はこう変えていきましょう。
・やる気が出ない → 仕事熱心で向上心をもつ
・人任せにする → 責任感をもって仕事をする
・考えず場当たり的に行動する → よく考えて行動する
・自分さえよければいい → 人への思いやりをもつ
・くよくよ悩み続ける → うまくいかなくても引きずらない
・横柄で成功すると調子に乗る → 謙虚で感謝を忘れない
・完璧な人間であろうとする → できないことは仲間に頼る
私は「くよくよ悩み続ける」人間で「完璧な人間であろう」としていました。
しかし、働く中でこのふたつは仕事上の足かせになることに気づき、今では「悩んでも仕方ないことは悩まない」「完璧な人間はいないんだから、誰かにどんどん頼ってしまおう」と思えるようになりました。
5.なぜ勉強をするのか
急に「勉強」についての話をします。
無関係な話を始めるのではないです。
勉強と職業は深く結びついていると思うのです。
私は先日、生徒の職業見学の引率に行ってきました。
その見学先の方がこのようなことをおっしゃりました。
勉強はしておいた方がいいですよ。
国語とか数学とか英語とか、そういった専門的な知識を身につけることが大切だというより、勉強をするという習慣を持つこと、勉強をして知識を増やすことの喜びを知ることが大事なのです。
社会に出ると、いろんなことを勉強しないといけない。
資格をとるために勉強は必要だし、仕事上でスキルアップするためにも勉強は必要。
だから、学生のうちで勉強する姿勢を身につけたり、知識を増やすことの楽しさを見出してほしい。
答え合わせをするわけではないのですが、『なぜ僕らは働くのか』においても「勉強する理由」が書かれているので、紹介しましょう。
学校で勉強するのは、「社会に出るための基礎体力を身につけさせるため」「将来の選択肢を広げるため」「学校の勉強にしっかり取り組み、いい成績をとって、自信を得るため」などが書かれていました。
私はいちばん最後がなるほどと思いました。
例外もいますが、勉強ができるひとはわりとみんな自信家な気がします。勉強ができるようになりますと、スポーツの方にもいい感じで打ち込めるようになるとも聞きます(実際、勉強ができる学校ほど、部活が盛んだったりします(公立高校限定))
では、勉強ができない子はどう救済すればいいのでしょうか?
その解答は「学歴がすべてではないから大丈夫だよ」というものです。
勉強ができなくても、自分がやりたいことが明白であれば、これからどういうルートで人生を歩めばいいかはっきりしていますし、その夢に向かって走るために努力はいとわないことでしょう。しかし、勉強ができても、将来することもないというひとは、とりあえず難関大学の経済学部なり法学部なりに入学しましたが、何の面白さも発見できず、将来やりたいことも見つけられずに大人になってしまう、というのは大変つらいものです。
(勉強ができることは結構で、自信家であることも結構なことです。ですが、『山月記』の李徴状態になってはいけません。自分は天賦の才を備えた、天地開闢以来の神童であると自惚れ、傲岸不遜を極め、尊大な態度で他者を籠絡するようになってしまえば、何かその人の自尊心を傷つける失敗経験ひとつすれば、その人のメンタルが砂上の城の如く簡単に崩れ落ちてしまいます。ですが、そういうひとはプライドが高いので、そうとは悟られまいと必死に「スゴイ私」という虚構を貼り付けようとしますから、もう救いようがありません。ですので、勉強は大事ですが、それがすべてではないということも重々承知しておくべきでしょう。)
この勉強に関する話題は過去に何度かとりあげました。
6.最後に
『なぜ僕らは働くのか』を主軸に、「働く」ことについて考えましたが、私自身、「働く」ということがどういうものかまだわかっていません。
自分の仕事が向いているかどうかもわかりませんし、これからもこの職業を続けていくのかどうかもわかりません。
そんな右か左かもわかっていない自分が「働く」ことについて書いてしまったことに恥ずかしさを感じます。
ですが、私は職業柄、「働くこと」を伝えなければなりません。
そのものずばり「キャリア教育」です。
私は今まで書いてきたことをそっくりそのまま生徒たちに伝えていきたいと考えています。
気持ち悪い、優しい世界
「桃太郎」が女の子「桃子」の紙芝居 小学生ら偏見や差別を学ぶ
桃太郎が性差による偏見の解消という理由で桃子という名前に変更され、鬼退治は野蛮であることを理由に鬼と話し合いをすることで和解を求めるストーリーに変更された。
温室、純粋培養、優しい世界。
そんなワードが頭に浮かんだ。
近年、いろんなひとへ配慮しなければならないという風潮がある。
コンプライアンスがガチガチでテレビ業界も出版業界もやりにくい感じがある。
ぺこぱに代表されるような誰も傷つけない漫才こそ素晴らしいとされ、「ハゲ」をいじったり、「馬鹿」「阿保」などの人を罵倒する言葉を乱用したり、特定の人物をいじったりするような漫才はアナクロだと言われている。
めんどくさい世の中になった、と思う。
誰も傷つけない、配慮の行き届いたエンターテインメントは気持ち悪いものだと思う。特に物語の場合、それが顕著だと思う。
登場人物全員が善人で誰もが主人公に手を差し伸べてくれるような成長譚は見るに堪えないものだろう。
なぜなら、そんな物語は「嘘」だからだ。
社会にはあらゆる問題がはびこっている。
いじめ、ハラスメント、交通事故、虐待、自殺、殺人。
そんな社会病理に目を向けることなく、まるでパラレルワールドのような「優しい世界」をつくりあげるのはやはり違うと思う。物語の役割は現実で生きる術を与えることだと私は考える。物語を通して、自分の生き方を見つめなおす。それなのにその物語があまりに現実離れしていると、何の参考にもならない。
かの桃太郎の話に戻ろう。
桃子なる主人公が鬼と話し合いをするらしいのだが、「鬼」というものは本来、主人公側に対する「悪」であるのだから、素直に話し合いに応じるわけがない。だから、そこで「話し合い」による和解が成立するということは、そいつらは「鬼」ではなかったということだ。もし仮に「話し合い」による平和的解決を求めるというならば、「鬼」側の「論理」をはっきりしておかねばならないだろう。正義が対峙するのはまた別の正義であるように、鬼側にも主義・主張があるという事実を物語上で提示する必要があるだろう。それなのに、あの紙芝居はあっさりと話し合いで解決ができてしまっている。あまりに安易だ。
少し前にあったが、有名な作家さんがJRで車いす乗車拒否を受けたという記事をネットに公開し、大きな反響があった。
その全貌についてはここでは書かないが、記事を見る限り、自分が障碍を持っていることを武器に完璧な配慮を求めているのだから、批判の声の方が大きいのは首肯できる。
実際、私も教員という職業柄、経験上(詳しくは書けないが)、障碍者という立場を利用して、「あれをしろ」「これをしろ」といった無茶な要求をしてくるひとをたびたび見かけた。もちろん、学校側としても障碍者を無下にする気持ちなどことさらなく、むしろ「ノーマライゼーション」が謳われている世の中で、あるべきなのは「平等」であり、そのための配慮はきっちり行っているのだが、クレーマーは過度な要求をしてくるのである。過度な要求というのは、ほかの生徒への対応をおろそかにさせてしまいかねないくらい大きな負担をかけるものである。
「多様性」が大事なのはわかるし、私としても「大切」にしていきたいと思っている。
相手の立場に立って、ものを考えさせられるような教育を行っていきたいと思っている。
また、私として「きれいごと」を言うことをいとわないし、むしろ、「努力すれば夢は叶う」という言葉を恥ずかしげもなく言ってもいいと思っている。
優しい世界になることを私は望んでいる。
しかし、残念ながら世界は残酷である。たびたび犯罪は起こるし、海の向こうでは戦争が起こっている。優しい世界とは真逆の世界が今の世の中である。
「配慮」という言葉をあちこちに投げつけ、かえって生きづらくさせてしまっている今の世の中、社会病理の上に「優しい世界」幻想をぺたりと貼り付けようとしている事実が、なんとも気持ち悪い。
「配慮」は押し付けるものでもないし、人を縛るものでもない。配慮できないものはできないときだってある。
また、「優しい世界」は目指してしかるべきだが、「社会病理」に無視を決め込むのは現実逃避にほかならない。
今回、やや過激なことを書いたが、昨今の潮流が「おかしい」と思いつつあったので、こうやって筆を執った次第だ。
こんなふうに昨今を皮肉った物語が「小説家になろう」にあるそうで、面白かったので、リンク先を貼り付けておきました。
石戸奈々子『賢い子はスマホで何をしているのか』
GIGAスクール構想というものがある。
これは「全国の児童・生徒1人に1台のコンピュータと高速ネットワークを整備する」という取り組みのことである。
新型コロナウイルス感染症の拡大を受けて、2023年度までを目処に構想の実現を目指していたが、前倒しされ、2021年3月末までにほとんどの小中学校への端末導入が完了した。
GIGAスクール構想の柱となる3つの取組がある。
それは
「ICT環境の整備」
(高速大容量の校内ネットワーク/児童・生徒に1人1台の端末/効率的、効果的な調達を支援)
「ソフトの充実」
(学習者用デジタル教科書/教材の活用促進/ICTを活用した学習活動の提示/AIドリルなどの技術実証)
「指導体制の強化」
(各地域の指導者養成/ICT活用教育アドバイザーによるワークショップの開催/ICT支援員などの外部人材の活用)
である。
私はこういったICTを用いた授業を積極的に行っていきたいと思っている。
ITだのAIだの叫ばれ、あらゆるものが自動化し、機械化している世の中において、なぜか学校という空間はそんな世界と断絶されてしまっている。
社会に出たらおそらく見ることはないであろう「黒板」や、今やメモをとるにしてもスマホやパソコンを用いるというのに「ノート」での書きこみを強要されていたり(ノートを書くことにも利点が大いにある)、これから答えのない問いに立ち向かっていかなければならない時代に答えのある問いばかり対峙させられていたり(もちろん、児童・生徒の主体性を育てるための教育を実践している学校もある)……、とにかく時代の流れに完全に乗れていないのが「学校」という空間なのである。(すべての学校がそうであるとは言えない)
これから学校はどうあるべきか?
その問題を解決しようと、上の人たちが考えたのが「GIGAスクール構想」なのだろう。
GIGAスクール構想に対して批判的な意見もいくつか見受けられるが、私としては「これからを生きる子どもたちのニーズに合った教育ができる」ことに対して大いに期待している。
告白すると、私は情報科の教員がうらやましいと思ったりする。
将来的に、情報科の教員免許をとりたいとすら思っている。
その大きな理由は、「これから子どもたちは情報の氾濫する複雑怪奇な社会を生き抜くことを強いられ、そのためにはITリテラシーや情報セキュリティーに関する知識、情報機器の基本的な操作方法などを知っておく必要があるから」である。
そして、「情報」という授業が大事であるということを、子どもたちは容易に理解させることができる。「情報」と「生活」は直結しているからである。日々の生活の中で情報機器に触れない日はほぼない。(逆に今の子どもたちに「古文」の大切さを説くのは難しいだろう)
さて、今回紹介するのは『賢い子はスマホで何をしているのか』である。
その中で紹介するのは、第五章の〈「学校」はこのままではいられない〉である。
未来の教育はどう変わるのか、記述していきたい。
2020年、コロナ禍により、学校はオンライン授業への移行を打診されるようになった。実際、大学ではオンライン授業を行っているところが多く、そのことに不満を持った学生が退学をするという事案がたびたび起こった。
そう聞くと、オンライン授業はよくないというふうに思われるかもしれないが、実のところどうだろうか?
(主に大学でのオンライン授業をとりあげる)
確かにオンライン授業は機材がそろっていないと授業を受けられないといった点やネット環境が不安定だと満足して授業を受けられないという点など、「ネット環境」を伴う問題点が挙げられる。また、対面に比べて味気なさを感じたり、ディスカッションができない、友だちと会えないといったデメリットがある。
だが、メリットもある。
コメント欄にがんがん質問を書き込むことができるという点である。これまでは疑問に思っても挙手できなかった学生が、かんたんに質問できるのである。また、オンラインでコメント欄が見られるならば、教授は「この質問はみんなで共有すべきだな」と思うものに答えることができる。
また、対面だと、だいたいの学生がうしろのほうの席に座りたがるが、オンラインなら全員が最前列に座っているような臨場感があるし、リアルな場所で人に会いたくない人にとっても、人に会わずに授業を受けられるというメリットもある。(自閉症の子や不登校がちの子(小・中・高の場合)でもかんたんに授業に参加できるということである。)
ゲスト講師を呼びやすいというメリットもある。
わざわざ遠方から来ていただかなくても、パソコン一台あれば、その場で講義を行うことができる。頼む側からしても、時間をあまりとらせないかたちで授業をしてくれるよう頼めるわけだ。VIP講師を呼びやすくなったのは、オンライン授業における大きなメリットである。
筆者はこう述べる。
「自分は何をやりたいのか? そこさえ明確なら、道は開けます。そのために必要な学習コンテンツや、それを教えてくれる人間とマッチングしてくれる仕組みは、いつか必ず登場してくるでしょう。」
これはいわゆる今現在教育が「個別最適な学び」を育成する方向に舵をとっていることを踏まえての意見だろう。
学習指導要領や検定教科書という存在が、一律に同じ内容を教えるという、近代教育を象徴するものであることを考えると、なんだか文部科学省の目指す「個別最適な学び」という文言が矛盾してしまっているふうに思える。
筆者は、個別最適化された学びが進めば、学習指導要領や検定教科書も意味をなさなくなってくるだろうと予想している。
その予想が当たるか外れるかはいったん置いておいて、「個別最適な学び」は非常にいいものである。そもそも同じ教室の中、同じ授業を行うというのは、現在の教育システム上仕方ないことではあるが、やはり無理のあることだと思わざるを得ない。
現在の教育システムでは、必ず落ちこぼれも吹きこぼれも生まれる。そして、両者はかなしいかな報われることはない。落ちこぼれはますます授業についていけず、吹きこぼれは授業を退屈だと感じ、自己研鑽の機会を失う。学校が個性を奪う場だと言われて久しいが、そのゆえんをそこから垣間見ることができるだろう。そりゃ、スタディアプリで十分だという意見が出てくるわけだ。
授業は、やはりその子に合ったスピードで行うべきである。
15歳の子が大学レベルの内容を勉強してもいいし、10歳の子が小学一年生レベルの内容を勉強してもいい。
もっといえば、複数の学校で学んだっていいし、家でも図書館でも好きな場所で学べばいい。一斉授業がなくなれば、時間割もなくなり、不登校という概念もなくなり、入院中の子どもも病室で学ぶことができるようになる。
これが「個別最適な学び」の真の姿だ。
……と、まあ、正直「机上の空論」「空中楼閣」に思えてならないのだが、どうだろうか? そんなふうに冷めた目で見るのはよくないのかもしれない。しかし、どうしても冷めた目で見てしまう。実現不可能だろう、とぼやいちゃう。
私自身、ICT教育を用いた授業を積極的に行いたいし、個別最適な学びを積極的に取り入れたいと思うが、今後果たして、「一人ひとりに合った授業」というものが実現されるのだろうか? 一斉授業はほんとうになくなるのか? 時間割がなくなるのか? ……そう言われたら、うーんと思わざるを得ない。
筆者は次のようなことも言う。
入試だってなくなるかもしれません。デジタル化で学習データがたまっていけば、その履歴で評価することができるからです。一発勝負の試験だと、たまたま体調の悪かった子は、それまでの努力がその時点では報われませんでした。普段の勉強で評価されるのなら、そっちのほうがよっぽど公平です。
学ぶ場所が学校だけでなくなると、学習データの管理が大変です。「本当にそれが信頼に足る履歴なのか?」という疑念も出てくるでしょうが、ブロックチェーンの技術を使えばクリアできます。仮想通貨にも使われている技術で、改竄できないのです。
〈中略〉ブロックチェーンに裏付けられた学習履歴があれば、企業側は自社が求める能力をもった人材なのかどうか、一発で見分けられる。面接の短い時間で学生の適性を見抜こうとするより、よっぽど効果的にマッチングできるのです。就活という言葉も消えていくかもしれません。
やはり、夢物語に思えてならない。
しかし、この夢物語が現実になれば、サイコーであることは言うまでもない。
そして、そのサイコーな未来に向けて、AI研究者、プログラマーは水面下で頑張っている最中なのかもしれない。
そう思うると、さっきの冷めた目であれこれ思ってしまったのは、なんだか申し訳ない気持ちにもなる。
いったん、私見は置いておく。
筆者は学校という場の解体を望んでいるわけではない。
むしろ、「学校の場としての機能」は残るだろうと述べている。
学びには仲間が必要であり、助け合ったり、刺激を与えあったりする学習コミュニティの価値はなくならない。親が見ていないところでも安心・安全ない場所であるのが学校であるという点で、学校が必要不可欠な「場」であることは容易に理解できるだろう。また、勉強以外のイベント、体育祭・文化祭などは友だちとともに頑張り、成長する機会である。そういった学校の果たす役割はこれからも失われることはないと思われる。
(私自身は、学校というのはいろんなひとたちと触れ合う場として認識している。社会にはいろんなひとがいる、いわゆる多様性に満ちた空間というのが社会であり、学校はその縮図であると言えるからである。)
先ほどまでずっと「学校×デジタル」という観点で話を進めてきたが、最後にちょろっとだけ「家庭×デジタル」の話をしよう。
デジタルというものは、低コストでなんでも体験できる。
たとえば、ピアノを習いたいと思った時、今までならば、めちゃくちゃコストがかかっていたが、今ではスマホひとつでピアノが弾けるし、弾き方だってYouTubeを見ればその動画が載っている。
このように、いまの時代は、何をやるにしても敷居がずいぶんと低い。いつだって低コストで体験できる時代なのだ。もっと言えば、子どもたちにいろんな体験をさせ、そこで「やりたい」ことを見つけさせることができる時代になったのだ。
これから家庭内では、子どもたちにスマホなどの機器を気兼ねなく渡し、好きなだけ触らせ、いろんなことを体験させることが望ましいとされる(もちろん、情報の取り扱い・セキュリティーの面について十分に留意する)。
筆者の立ち上げたNPO法人CANVASのワークショップの紹介が本書にいくつか書かれていたが、実際、そこに参加する子どもたちは食いつくようにプログラミングに夢中になっているそうだ。
こういったデジタルに強い子ども―デジタル・チルドレンが創造する未来は明るいと思う。
よりより学びの実現に向けて、従来の社会の障壁を取り払ってくれるかもしれない。
もしかすると、学校の旧態依然とした体制すらも?
……今はまだどこか冷めた目で本書を読み通してしまった私をいつかデジタル・チルドレンが驚かせてくれる日を楽しみにして待つ。
【関連動画】
犬塚美輪『14歳からの読解力教室』
大学二年生ぐらいまでろくに本を読んだことがなかった。
文庫版の小説を初めて読んだのが大学二年生の夏ごろ。
たしか、『君は月夜に光り輝く』だったと思う。
一般文芸すら敷居が高いと思っていたので、ライト文芸から肩慣らし。
そっからしばらくライト文芸ばかり読んでいたんだけど、(ライト文芸を馬鹿にするわけではないけど)なんだか食い足らないような感じがした。
面白い、けれど、あとに残るものがない。
上から目線の評者みたいな意見だけどそう思った。
で、一般文芸に手を出そうと思って、手に取ったのが宮本輝さんの『青が散る』
当時、テニスが好きな大学生だったこともあり、まさにぴったりな小説だと思い、読み始めたのだ。
濃密な読書体験を得た。
主人公の内面やや他の登場人物との関わりを通しての成長の描写、ときに美しく、ときには暴力的で、しかしどこか温かい、流麗な筆致が織りなすストーリー。
すばらしい。
小説とは、こういうものなのか!
そんなふうに思った。
それ以来、私は小説の虜になった。
……
この体験から言いたいのは、宮本輝さんの小説が素晴らしいということではない(もちろん、事実、そうであるのだが)。
私が言いたいのは、ふつうに本を読むということは、ある程度経験を積んでいないとできないことではないか? ということだ。
ふだん本を読まない人間が、一冊の小説を読むというのは、三角形の面積の求め方を知らない人間が台形の面積を求めるのと同じくらいに無謀なことなのだ。
実際、私は中学生のとき(つまり読書体験がゼロの時代)、貴志祐介『悪の教典』を読もうと購入したのだが、一ページ目で断念した。(大学三年生のときだったか、一気呵成に読んだ。『悪の教典』は内容こそ残虐なものだが、パニックホラー映画的で、おもしろかった。)
また、高校生のときに角田光代『私のなかの彼女』を読もうとしたのだが、途中で断念したし、乙一『暗いところで待ち合わせ』という超読みやすい小説すらも途中で断念した。
まったく読書経験がなかったからだ。
そういった意味で、ライト文芸を読み漁っていた経験は必要であったといえる。
読書経験の正しい積み方は、幼少期に絵本を読んで、小学生のときに児童文学(『モモ』『星の王子様』『エルマーのぼうけん』など)を読んで、中学生のときに読みやすい小説(『カラフル』『西の魔女が死んだ』『夜のピクニック』など)を読んで、高校生のときに文学作品(夏目漱石、中島敦、太宰治など)に触れたり、新書を読んだりし始める。そして、大学生になって小説から少し離れて、専門書を読むようになる。こういう流れがいちばんいいのではないか? 小説すらもまったく読まずに生きてきた人間がいきなり専門書とかなかなか読めるものではないと思う。
まあ、例外はいくつでもあるんだろうし、あくまで私の主観であるが。
……とにかく、今回のテーマは『読解力』である。
犬塚美輪『14歳からの読解力教室』という本を、24歳の私が読みました。
私自身、読解力がある人間ではないため、恥をかなぐり捨てて、この本を真剣に読みました。
1.読解力は必要か?
たまにこんなひとがいる。
「動画を見れば済む話だから本を読む必要はない(=つまり、読解力は必要ない)」
たとえば、数学の問題でわからないことがあれば、YouTubeでその解説をしてくれる動画を見る。
しかし、じゃあほかの問題をやってみようと参考書を開いてやってみたが、……やはりできない。じゃあまた解説動画を見よう! となると、なかなかめんどうだ。そうなると、参考書の解説を「読む」しかない。
資格をとるにしても、料理をするにしても、使い慣れない機器を利用するときも、本なり、説明書なりを「読むこと」が求められる。ここに文系、理系の壁は存在しない。人間ひとしく「読むこと」が求められる。つまり、読解力が求められるのだ。
また、ずいぶん前に『AI vs 教科書の読めない子どもたち』についてまとめたことがあるが、そこではAIはあくまで計算処理に長けているのであって、読解力を備えているわけではない、といった旨を書いた。
軽く説明を加えると、こうだ。
A キリンがリンゴを食べた
B キリンがリンゴに食べられた
人間はBが常識的にありえないということを理解しているが、AIは「キリンはこういうものだ」「リンゴはこういうものだ」という常識を知らないため、AもBも文法的には正しいので、「どちらも正しいよ」という判断をしてしまう。
だから、AIが読解力を身につけない限り、人間が読解力を必要としない時代は訪れることはないのだ。
だから、「読解力は必要か?」と言われたら、即座に「必要である」と言える。
2.なんで読めないのか?
現在のベルギー・ルクセンブルクに当たる南ネーデルラントは当時スペイン領であったが、1665年にスペイン王フェリペ4世の死後、ルイ14世は王妃マリー・テレーズがフェリペ4世の王女だったことから継承権を主張し、1667年5月に南ネーデルラントに侵攻した。主張の根拠は、1659年にフランスとスペインの講和条約であるピレネー条約締結でマリー・テレーズとルイ14世の結婚とスペインの持参金支払いを取り決め、マリー・テレーズがスペイン王位継承権を放棄したが、持参金が支払われていないため(というより、もともとスペインの経済力では払えないような金額を吹っかけておきながら、実際の支払は督促せずにこういう機会まで引き延ばしていた)、ルイ14世はマリー・テレーズの放棄は無効と宣言、ネーデルラントの法律でフェリペ4世と先妻の子であるマリー・テレーズが後妻の子カルロス2世より継承順位が高いとする条文を見つけ相続を主張、スペインが取り合わなかったため戦争に踏み切った。
これはネーデルラント継承戦争についてのWikipediaの記事である。
世界史の知識がまったくない自分にとって、以上の記事はもはや意味不明である。
読もうという気力すらわかない。
フェリペ4世?
マリー・テレーズ?
私は、歴史小説をいっさい読まないのだが、その理由は私が歴史にあまり詳しくないからである。
つまり、何が言いたいのか、というと。
もともとの知識の枠組みがあるのとないとのでは、読解の難易度も変わってくるということだ。
そういった意味でも、国語の評論文の試験で、自分のまったく知らない分野の話が書かれているのと、自分が興味のある、もしくは実際に研究している分野の話が書かれているのとでは、文章を読むスピードや理解度も変わって来る。
人間である以上、興味あるなしというのはあるので、全部のジャンルに対して興味を持て! というのは酷であろう。しかし、どのジャンルにも興味がないというのは、文章を読むことへの抵抗感を増長させるだけなので、何事にもまず「知ってみよう」という気持ちでその分野について学ぶ姿勢をもった方がいいのかもしれない。
私はたとえば新書を読んでいるときにその分野についてまったく意味がわからないとなれば、動画などを用いて、その分野についての概略を解説しているものを見つけたりして、知識を蓄えようとしている。そうでもしないと、まったく読解できないからだ。
ほかにも文学作品を読む際、どうしても内容が頭に入ってこないときは、漫画なり内容を解説しているブログを見たりしてから、本に戻ったりする。
そういった経験から、本を読むにあたって、読み手側の知識というのは非常に重要になって来ることがわかった。こういった「要旨や背景知識に着目し、テキスト構造などの知識経験を活用して読解していくこと」をトップダウンという。
3.人の知識の形成
079411851603
この数列をどう覚えようか?
ゼロ・ナナ・キュウ……と何度も口に出して覚えようとしても、まあ覚えられない。
(ひとは無意味な羅列を覚えるのが苦手なのだ。)
だが、実はこの数列が「平安京遷都・鎌倉幕府開幕・江戸幕府開幕」の年号の並びの順になっていることに気付くとどうだろう?
すぐに覚えられそうだ。
意味がある情報はすごく憶えやすいものなのだ。
つまり、こういった方法でひとは記憶力の向上がはかることができる。
また、こういった覚え方もある。
「つれづれなり」という単語の意味は「①手持ちぶさたである。することがなくて退屈である。 ②しんみりとしてさびしい。」である。
これをただ覚えようとするのは大変だ。
そんなときは「つながり」をもたせることで記憶しやすくなる。
「つれづれなり」はもともと「連れ連れなり」と書かれていて、ここから「長々と連続するさま」であることがわかり、「長々と連続するから、なんだかつまらなくて飽きる感じ」が連想でき、「退屈である」とか「さびしい」とかいう意味が理解できるようになる。
ちなみにゴロゴにはこうあった。
※ゴロゴは語呂合わせで古文単語を覚えようとするのがウリの本。
〈つれーづれー、手持ち無沙汰だ〉
……うん?
まあ、セレクトした単語がよくなかった。
実際、ゴロゴの中でもこれは面白かった。
えんなりかずき優美だ
平安貴族みたいな恰好をしたえなりかずきのイラストが書かれている。
えんなり=優美だ
語呂合わせなんか、ばかばかしいからこそ、覚えやすい。
実際、化学のイオン化傾向の〈貸そうかな、まああてにするなひどすぎる借金〉、元素の〈すいへーりーべーぼくのふね ななまがりシップスクラークカ〉の語呂合わせはまだ覚えている。
語呂合わせという覚え方は場合によっては悪くない。
しかし、古文単語(英単語も)は語呂合わせよりも、語源だったり、漢字だったりで覚えた方が、覚えやすいし、つながりをもたせやすい。
さっきの「えんなり」も漢字で書くと「艶なり」であり、「艶美」の「艶」であることから「優美だ」とか「色っぽい」とかいう意味を理解することができる。
ほかにも、単語をあらわす状況をイメージしたり、イラスト化することや、単語を使ってストーリーをつくったり(物語化は記憶定着に非常に有効)、いろんな方法がある。
とにかく、つながりを作ってやることが記憶を定着させるのに非常に有効的であることは確かなのだ。
4.物語化の功罪
『はたらく細胞』という漫画が学校の図書室に置かれている。
これは『はたらく細胞』が勉学に役立つ本であることを証明している。「赤血球」や「白血球」が擬人化して、体内に起こるあらゆることに対し、それぞれの役割を担って対処していくストーリーである。「赤血球」や「白血球」の役割がわかりやすく描かれている。教科書の記述ではなかなか理解できないが、視覚化(擬人化)され、物語化されたものを読めば、すらすらと頭の中に入ってくる。たしかにすばらしいことだ。
(勉強ではないが、競馬の名前を覚えろと言われても、競馬好きでもないひとが覚える気にはならなかったのが、『ウマ娘』というアプリが出たことによって、一部界隈のひとたちが競馬の名前をすらすら言えるようになったという話を聞く。擬人化というのは、記憶定着に大いに役立っているといえるだろう)
このように勉強のために漫画を用いるというのは非常に有効的であると言える。
しかし、漫画には弱点がある。それは、視点が偏ってしまうということである。
例えば、「応仁の乱」について漫画を描くとする。実際、応仁の乱はあまりはっきりとしない理由で始まったらしいが、そんな漠然とした理由で戦争が始まっただなんて漫画として面白みがないので、日野富子をめっちゃ悪者にする、みたいなことがあるのだ。これが物語化によるデメリットだろう。
(よくYouTubeで漫画にアテレコをする動画を見かける。フェルミ研究所とかヒューマンバグ大学とかね。ああいうのは、だいたい視点の偏りや誇張があると思う。物語として面白みを持たせるために致し方ないことであるが)
漫画以外でも映像を媒体とした物語でも同じように視点の偏りはある。視点の偏りのみならず、映像映えを考慮して、よりインパクトのあるものを用いたりすることだってある。例えば、時代劇でよくみられるかっこいい馬、実際のところ、あれほど立派な馬は当時は使われず、使われていたのはポニーのようなずんぐりとした小さな馬であったそうだ。しかし、史実を忠実に再現してしまうとなんとも見栄えが悪い。だから、あえてかっこいい馬を用いるのだ。
以上のような、物語化によるデメリットもあるということは理解しておいた方がいいだろう。
もちろん、前に述べたように、物語化することによって記憶を定着させやすいというメリットもある。『あさきゆめみし』という漫画を読むことで、源氏物語を理解しやすくなったり、『はたらく細胞』という漫画を読むことで、生物基礎の細胞についての分野を理解しやすくなったり……、これはまさにトップダウンの処理がしやすくなっていることである。
物語化は知識の大枠を与えてくれるという大きなメリットがあるのである。
5.メタ認知
メタ認知という言葉がある。
メタ=一段上の
認知=知的な活動
つまり、自分の知的活動を一段上から把握する頭の働きを指す言葉である。
人の知的な活動には、実際の課題解決にあたる「認知レベル」の活動と、その認知レベルの活動を監視・コントロールする「メタレベル」の活動があるとされている。メタ認知とはこの「メタレベル」での活動を指す言葉である。
(メタ認知は「ふわぁと肉体から離脱した魂と化した自分が肉体の自分を見つめている」状態に近いと思う。つまり、一段階上のところで自分を俯瞰してみている。)
このメタ認知を働かせるというのは、頭の中につながりをつくると同時にそのつながりが途切れていたりねじれていたりするところがないかを確認していくという作業のことである。つながりをつくるのが「認知レベル」で、途切れやねじれのチェックが「メタレベル」である。
じゃあ、以下の文を読んでみよう。
すべてのアリには共通する点がいくつかあります。まず、アリには鼻がありません。アリは驚くほどの力持ちです。体重の何倍もの重さのものを運ぶことができます。ときには、自分たちの巣から離れて遠くまでえさ探しに行きます。遠くに行きすぎると、帰る道がわからなくなってしまいます。家に帰る道を見つける特別な方法を使います。行く先々で、体から特有の化学物質を出すのです。これは、目には見えませんが、特有のにおいを持っています。このにおいをかぐことで、彼らは迷わず家に帰ることができます。
この文章に違和感を持たなければ、メタ認知失敗だといえる。
つながりが変だなあ、おかしいなあ、と思わなかっただろうか?
……こたえ。
アリには鼻がないのに、どうやってにおいをかぐの?
これに気づかなければ、「つながりのなさ」に気づかないということなので、メタ認知失敗であるといえる。
ほんとうの意味で読解力を向上させたいなら、この「メタ認知」をしっかり働かせる必要があるだろう。
メタ認知を鍛えるためには、友だちに説明したり質問してもらったりするといいそうだが、この詳細は本書に譲る。
6.批判的読解
情報氾濫社会においてどの情報が正しいのか間違っているのかわからなくなっている。どの新聞のいっていることが正しくて、どの新聞がいっていることが間違っているのか、もはやわからなくなっている。
わからなくなっている、と判断できている時点で実はすばらししいことなのだ。
一番ダメなのは、どの新聞を読んだときも「なるほど、そういうことなのか!」となんでもかんでもうのみにしてしまうことである。
それではいつかだまされてしまう。(いや、もうすでにだまされてしまっているか)
ここで重要なのが「批判的読解」である。
たとえば、こんなアンケートがあるとする。
Q あなたはタケノコの里よりもキノコの山の方が好きですか?
A はい(40%) いいえ(60%)
この回答を見れば、なるほどタケノコの里派の方が多いんだな、と思うだろう。
だが、実は「いいえ」が「タケノコの里の方が好きである…30%」と「どちらでもない…30%」という構成だったらどうだろう?
キノコの山派の方が多いということになるのだ!
だが、前述のアンケート結果に嘘偽りはない。
このような「嘘偽り」こそないが、裏があるんじゃないかと疑りたくなる記事というのはごまんとある。
とある芸能人を一方的に悪者にしたいがために、わざわざそのひとの過去の悪行をさらして自分の論調を強めようとする記事とか、若者が悪いという風潮にしたくて都合よく若者のダメな側面ばかりクローズアップしていい側面を書かない記事とか、嘘偽りこそないが偏りに満ちたものがたくさんある。
そこで必要なのが「批判的読解」なのである。
批判的読解をするうえでの注意事項が以下のとおりだ。
・言葉の使われ方に注意
(事実:ジャーナリストの事実誤認→記事:ジャーナリストが捏造した)
・論理の飛躍
(フランスの大学入試は長大な論文と口頭試問によって行われている。日本のような短答式の筆記試験がメインの入試というのは時代に合っていない。
→なぜフランス式の方が時代に合っているといえるのか、その根拠がなく、論理が飛躍している。)
・ほかの情報と比べる
・テキストの外にある知識との矛盾を見つける
(1999年に出版された「水からの伝言」という本の中では、水の入ったボトルに「ありがとう」「ばかやろう」と書いた紙を貼り付ける実験が紹介されています。その結果、「ありがとう」ラベルのボトルの水からは美しい六角形の結晶を撮影することができましたが、「ばかやろう」ラベルが貼られた方のボトルの水からは美しい結晶を撮影することができませんでした。
→自分の持っている知識や常識から、水に言葉かけをして、美しい結晶が見られるなんてありえないんじゃないの? と判断できる。
※しかし、これが少し専門的な内容になると、「そうなんだ」と流されてしまいそうである。コロナウイルスやワクチンへの正しい理解とか専門家ではない我々からすると未知な領域であるため、たまたま見つけたあらゆる情報をうのみにしてしまう。)
今の時代だからこそこの批判的読解は求められるのかもしれない。
7.まとめ
ほかにも有益になることがいろいろと書かれていた。
しかし、今回はここまでにする。
最後にまとめておこう。
1.読解力は必要か?
・AI社会が到来するからといって読解力が不要なわけではない。そもそもAIに読解力は備わっていないのだから。
2.なんで読めないのか?
・もともとの知識の枠組みがあるのとないとのでは、読解の難易度も変わってくるということだ。その前提の知識の枠組みの獲得のためにも、何事にもまず「知ってみよう」という気持ちでいろんな分野について学ぶ姿勢をもった方がいいのかもしれない。
・「要旨や背景知識に着目し、テキスト構造などの知識経験を活用して読解していくこと」をトップダウンという。
3.人の知識の形成
・意味がある情報はすごく憶えやすい。
4.物語化の功罪
・勉強のために漫画を用いるというのは記憶力の向上に一役買っていて非常に有効的である。
・物語化は知識の大枠を与えてくれるという大きなメリットがある。
・物語化は視点の偏りを生じさせるというデメリットもある。
5.メタ認知
・自分の知的活動を一段上から把握する頭の働きを指す言葉=メタ認知
・メタ認知を働かせるというのは、頭の中につながりをつくると同時にそのつながりが途切れていたりねじれていたりするところがないかを確認していくという作業のことである。つながりをつくるのが「認知レベル」で、途切れやねじれのチェックが「メタレベル」である。
6.批判的読解
批判的読解をするうえでの注意事項
・言葉の使われ方に注意
・論理の飛躍
・ほかの情報と比べる
・テキストの外にある知識との矛盾を見つける
・今の時代だからこそこの批判的読解は求められる。
鎌田實『相手の身になる練習』
現代文の読み方について。
まず、読み手の主観はいったんどける。
そして筆者の意見に対してこびへつらうように読む。
なんだか嫌な感じだな、と思われるかもしれないが、実はこれ、いわゆる客観的な視線を持つためのトレーニングでもある。
言ってしまえば、相手の身になるためのトレーニングでもありそうだ。
SNSをやるうえで、読解力はかなり重要な能力である。
極端な例だが、とあるひとが「ハンバーグ大好きです」とつぶやいたとして、それに対して、「私はハンバーグ嫌いです」とか「ハンバーグ食べられないひとの気もち考えたことがある?」とかそういうことを言うのは、明らかに読解能力が欠如していると言わざるを得ない。
しかし、実際そういったことがはびこってしまっている。
また例を出すが、
とある著名人がいるとする。
その著名人は今はあらゆる貧困の国に訪れてはそこで貧しい人たちを助けるための取組を行っている、いわば聖人君子そのものである。
そんな著名人が実は中学生のころに万引きをしていたという過去を暴かれたとする。
その報道を受け、Twitterではその著名人叩きが始まった。
そこで私が「ここぞとばかりに過剰なほどに正義心をふるまうやつらが憎い」などといったツイートをしたとしよう。
すると、私のツイートに「何やお前? あいつの肩を持つんか?」というリプがついた。……なんの話をしているのか? そんなリプを送って来たやつはもれなく読解能力が乏しい人間だ。私はあくまでネット上でせこせこ叩いている人間を憎むという趣旨のツイートをしたのであって、著名人の肩を持ったわけではない。それは文面から読み取れることであろう。しかし、ちゃんと読めてない人がいる。物事を二元論的にしかとらえることができないひとがいる。
やはり、読解力は大事だ。
……今回は読解力の話ではない。
相手の身になる練習についての話だ。
では、レッスン。
- 1.伝わるように伝える
- 2.相手の話は最後まで聞く
- 3.言葉以外のメッセージも読み取ろう
- 4.相手の気もちをいったん受け止める
- 5.親切にされたら必ず「ありがとう」と言う
- 6.相手を価値ある人として接する
- 7.自分の気もちをよく知る
- 8.読書で視野を広げる
- 9.1%でいい、誰かのために生きる
1.伝わるように伝える
相手にとってわかりやすい言葉と方法をさがして、どうしたらきちんと相手に届くかを工夫する。
小さな子どもあいてにペダンチックな言葉を用いてはいけないように(「ペダンチック」という言葉を使っている時点でペダンチック)、日本語の理解できない外国人相手に流暢な日本語を用いてはいけないように、相手によって言葉の選択や話すスピードを変えなければいけない。また、相手が車いすに乗っていたら、相手と目線の位置を合わせて、声をかける必要がある。視覚障害、聴覚障害をもつ人相手へのかかわり方もあるだろう。
当たり前のようで以上のようなことができていないひとが多い気がする。
わかりにくい、難しい語句を用いて、相手に説明したというのに、相手が理解してくれないのを嘆く人間がけっこういる。私自身、あまり他者とのかかわりの機会をもっていないのだが、そんな私でもそう感じるくらいだから、世の中そういうひとであふれているのではないか、と思う。
だから、相手が理解できていない場合、もしかすると自分の説明が悪いのではないか? 伝え方がまずいのではないか? と疑る必要がありそうだ。
2.相手の話は最後まで聞く
言いたいことがいっぱいあっても、まずは相手の話を最後まで聞く。聞く姿勢を示すことで、相手が心を開いてくれる。
これも当たり前のようで、できていないひとが多い。
自分もその気がありそうで怖い。
相手がまだ話しているのに、そこに食い入るように割り込んできて話をかき乱すひとを見たことがあるが、ああいうひとはけっこう無自覚でやっているケースがある。だから、厄介なのだが。
まあ、でも自分の主張と食い違う内容を相手が言っていたら、そりゃ、「それは違うよ」と言いたくなるのもわかる。だけれど、そこでグッと堪える、忍耐力が必要だ。まさに傾聴の姿勢だ。
3.言葉以外のメッセージも読み取ろう
相手の声の調子、顔の表情、しぐさ、態度、言葉の間合いにも相手の気もちは現れている。言葉以外のものに託されたメッセージを読み取る感性を磨きましょう。
言葉にだけ耳を傾けるのではなく、相手の目を見たり、表情を見たりして、そこから言葉の向うにあるものを読み取るのだ。これはなかなか難しい。最近だと、みんなマスクしているから、目の表情だけで心情を慮るなんてメンタリストでもない限りできないような気もする。
ならば、声の調子や言葉の間合いで判断するのも手だ。声が暗い、言葉がたどたどしい、そういった細かい変化に対してアンテナを張っていく。そうすることで、相手の心情のひとつやふたつは推測できそうだ。
4.相手の気もちをいったん受け止める
相手の話を聞いたら、すぐに批評したりせず、相手の気もちをいったん受け止めます。賛同できても、できなくても、「受け止めたよ」と相手に伝えることが大事なのです。
相手の話を聞いて、もっとこうすればよい、という聞かれてもいないのにアドバイスをするのはまずい。
そんなことを筆者は言っていた。
まさにこれは以前に紹介した『傾聴の基本』においても書かれていたことだ。
相手が求めているのは、話を聞いてもらいたいということだ。これにきちんと応対せずに、気の利いたことを言おうとしても、それは自己満足にすぎないのだ。
だからこそ、相手の気もちを受け止めよ、ということなのだ。
約二年前、米津玄師がニュースzeroのインタビューでこう語っていた。
「自分が思っていることと全く真逆のことを考えている人間が対岸にいたときに、その対岸にいる人の主義主張みたいなものを一回引き受けてみる。それくらいの余裕は絶対に持って生きたい。調和をもって生きていかなければならない。人間はひとりで生きていくことはできないので。」
この言葉のとおりだと私は思う。
5.親切にされたら必ず「ありがとう」と言う
どんなことに対しても「ありがとう」と感謝の気持ちを返すこと。親切にしてくれた人もうれしくなり、気持ちが通じ合う。
これはもはや説明不要だと思う。
けれど、「ありがとう」という言葉を言っておけばいいやってことにもならない。
「ありがとうございました」は万能薬ではない。
仕事のミスを指摘されて、「ありがとうございました」と言えば、逆に嫌味に聞こえることだってある。「何が『ありがとう』なの?」と思われかねない。
だから、なんでもかんでも「ありがとう」と言えばいいわけではない。
でも、まあ、「ありがとう」と言うとき、そこに感謝の気持ちがきちんと乗っていればそれでよいのかもしれない。気持ちがきちんと乗っていたら、きっと相手にはその思いが伝わるはずである。
6.相手を価値ある人として接する
年齢、性別、出身あらゆる属性にかかわらず、誰に対しても「価値ある人」として敬意をもって接する。人を見下したり馬鹿にしたりすると、相手は離れていく。
私は、自分の人生に比べれば、みんなはもっと濃密な人生を生きてきたんだろうなと思いながら生きている。
かなり卑屈だが、マジである。
だから、どんな人間に対しても基本的にリスペクトをしている。
(リスペクトはしているが、「どーなん?」と思わざるを得ないときもある)
家庭環境劣悪な中育ってきた自分よりも七歳も離れた年下に対しても敬意を表するようにしている。
こういう感覚は年をとるごとに消えてしまいそうで怖い。
極端な話、
東大出身の官僚が悪事を働いたとする。
世間は彼(彼女)をバッシングする。
しかし、私はバッシングしようという思いが出るまえに、
彼(彼女)は東大出身だということは自分よりも何百倍も努力して東大に入学して、官僚になったんだな、自分が何度生まれ変わってもそんなエリート街道を行ける気がしないわ(笑)
なんて考えてしまう。
うーん、これはリスペクトというより「自分下げ」だな……。
7.自分の気もちをよく知る
相手の気もちに気づくには、自分の気もちもよく知っておくことが大切だ。
怒りがこみあげてきたら、6秒数え、深呼吸をする。
そうすることで怒りは和らいでいく。
不愉快なこと、怒りに支配されないようにするためには、どんなときに不愉快に思い、怒りがこみあげてくるのか、自分自身を見つめることが大切である。
つまり、客観的な視点に立って、内面を見るということである。
8.読書で視野を広げる
読書は、多様な考えや体験を知るかっこうの手段。
小説の主人公や歴史の出来事などを通して人間を知り、視野を広げることで、自分のなかの差別や偏見に気づくことができる。
最近、SFとかではなくヒューマンドラマ系の小説を読んでいるのだが、その読書理由がそんなふうにいろんなひとの気もちや主義主張を知るためだったりする。
なかには「何こいつ? 理解できないんだけど」と言いたくなるような登場人物の言動を見ることもあるが、だからといって「この小説リアルではない」と思うのではなく、むしろ、「なるほど、こういう考え方もあるのか」といったふうに思うようにしている。
事実は小説より奇なり
その言葉が示す通り、現実にはもっと理解不能な人間がいる。
そんなときに「リアルではない」という主張は通用しない。
リアルだから。
ま、そんなときも、
「なるほど、こういう考え方もあるのか」ぐらいの余裕をもった考えをしていきたい。
9.1%でいい、誰かのために生きる
人助けは人に強制されてするのではなく、自発的に自分の意思で始めるものだ。まずは自分を大切にし、苦しい自己犠牲ではなく、幸せをほんのり少し分ける。
幸せは自分のためだけに生きたときには得られない。
人が喜んでくれた時にオキシトシンが作用して、幸せを感じる。
だから、100%自分のために生きるのではなく、1%でもいいので相手のために生きる。それを筆者は推奨しているのだ。
私は誇張抜きで、できるなら、「みんなが幸せなら自分はどうでもいい」と思っているところがある。
ちょっと前までは他人の幸せのためには自分は何もしない方がいいのでは、と思っていた時期があったが(まさにエヴァに乗れなくなった時にシンジくん的発想)、最近では「他人の幸せのために自分は援助したい」と思うようになった。具体的な行動には出ていないが。
宮沢賢治の「雨にも負けず」に出てくるように、東西南北人助けのために奔走する人間でいたい、と思えるようになった。(ちなみに「雨にも負けず」は賢治の死後、彼の部屋で見つかったものである。このことから、その詩を収入のためではなく、ほんとうの自分の思いであることがうかがえる。……関係ないが、宮沢賢治の父親が主人公の小説『銀河鉄道の父』、おすすめです)
自己犠牲とまではいかないにしても他人の幸せのために自分が尽くす。
それを「教員」として、その役割を果たしていきたいと思う。
以上です。
※
この本の表紙を見て、meijiのTHE Chocolateを思い出した自分に驚いたんだよね。
……まあええや。
石田衣良『5年3組リョウタ組』
久々です。
試験とかで忙しくて更新できていませんでした。
はい、言い訳はさておき。
石田衣良『5年3組リョウタ組』
主人公は中道良太という茶髪でネックレスをつけたチャラい感じの25歳の小学校教師。聡明というわけではなく、熱い教育理念を抱いているわけでもないが、涙もろくてまっすぐな性格の男性。子どもに対し、真摯な姿で向かうことのできる、そんな教師。
そこで感銘を受けた部分がいくつかあるので、そこを紹介しようと思う。
第一章 四月の嵐にて
元也という日頃ブランド物の服を着ていて、学業優秀な男の子がいる。
そんな彼の父親は会計士で、とても厳格なひとだ。昭和気質なひとでもあり、元也をダメ人間だと罵ったり、教室から抜け出すようなこと(そもそもその原因が父親にあるのだが)をしたら人様に迷惑をかけよってと暴力を行使したりする。
元也は父親の期待にこたえようと頑張るも、教室のなかにいると息苦しくなってしまい、何度も教室を抜け出し、誰もいない屋上へ向かう。
そんな元也に対し、良太は手を差し伸べた。
元也ひとりのために特別授業と称して一週間屋上でプライベート授業をすることになった。そうして始まった特別授業の中で元也は良太に対し信頼を寄せるようになる。
そんな中、良太はクラス競争でほとんど最下位をとっていて(※良太の勤務している高校では学力テストがある。そのテストで良太のクラスが毎回のようにビリをとるのだ)、そんな自分を「ダメ教師」だと言う。これを聞いた元也は「中道先生はダメ教師なんかじゃない。ぼくのことを見捨てないでいてくれた」と言う。
(教師というのは完璧に見せるものではなく、ときに弱点をさらけだすのも大事という教訓だと受け取った。)
すっかり良太を信頼するようになった元也はこんな質問をする。
「先生、息ができなくなるのは、どうしたらいいんですか」
と。
良太はこう返す。
「逃げちゃっていいよ」
「逃げてもいいけど、誰もいないところまでいったらダメだ。ひとりでもいいから救命ロープになる人を見つけておいたらいいんじゃないかな。そうしたら、こちらの世界に帰ってこられるから」
逃げてもいい、というのは確かに疑りたくなるような、耳障りのよすぎる言葉である。(シンジくんと真逆を行く)
しかし、逃げてもいいけど、ひとりで誰もいない場所に逃げるのはよくないと留保している点に「なるほどな」と思った。
やはり、頼みの綱になるのは「頼れる人」だということだ。
孤独はひとをむしばむ。
孤独を好む人間はいるが、それは心に余裕があるときだけだと私は思う。
心身が疲弊していて、追い込まれているような状態のときに、光となるのは他人の存在である。間違いない。
だから、もし、子どもがそんな状態になるまで追い詰められていて、それなのに誰にも頼ろうとせず、自分の殻の中に閉じこもろうとしているならば、必ず、大人が手を差し伸べなければならないのだと思う。
子どもは自分の心中を明かせないのだから。
作中の元也もそうだった。
父親から「ひとりで抱えこんで、最後の最後まで自分の気もちを明かそうとしない。〈中略〉世のなかにでれば、実際はもっと厳しいからな。誰もなにもいわずに、無能な人間、無用な人間を切り捨てていくだけだ」と言われている。
そんな父親に対し、若い青年良太は「では、無能で無用だからと、おとうさんは自分の子を切り捨てられますか。世のなかがすべてそうなっている。だから同じように子どもに対するというのは、おかしな話だと思うんです。それに耐えられない子もいる」と切り出す。
それに対し、父親は負けじとこう言う。
「だから学校の先生は純粋培養だといわれるんだ。大学をでてすぐに先生と呼ばれるなんて、そちらのほうがおかしな話だ。社会の厳しさも、人の冷たさも知らずに、教育ができるんですかね」
……この諍いは元也の母親、副校長などの仲介もあって止められるのだが。
そんな中、良太の友人染谷(優秀で管理職からの評価も高い)はこうつぶやく。
「誰かに認めてもらえるというのは、とてもうれしいことですね」
「認めてくれる相手が、大切で尊敬している父親だったら、もっとうれしいと思います」
染谷はそこからさりげなく、元也の問題行動(授業の中抜け)は学校側ではなく家庭内に問題があることを指摘し(なかなかできるものではないし、おそらくだがやっちゃいけないと思う)、副校長がとりまとめを行って、面談は終了することになった。
私は最後の良太と元也のやり取りに感銘を覚えた。
少し長いが、引用する。
「これから先生がいうことは、ちょっとむずかしいかもしれない。でも、しっかりきいて、あとでよく考えてごらん。あのね、親と子でも、兄弟同士でも、まるで性格があわないことがあるんだ。人間同士だからね、好きだったり嫌いだったりするのはあたりまえだよね。ときどき正反対のタイプが、たまたま親子になったりする。だから、そういうときは強いほうが、相手にあわせてあげなくちゃいけない。おとうさんと本多くんだと、強いのはどっちだろう?」
元也は迷わず即答した。
「おとうさん」
良太はクイズ番組のようにおおげさに男の子の目のまえで人さし指を振ってみせた。
「違うよ。強いのは、本多くんのほうだ」
「でもどうして」
良太は窓の外に広がる清崎の港に目をやった。今この瞬間、この景色を眺めているのは、元也と自分だけしかいない。きっと人を教えるというのは、こんな時間を何度つくれるかなのだと思った。
「本多くんのおとうさんは、先生の何十倍もお金を稼いでいるかもしれないし、この街で力のある人のほとんどを知っているかもしれない。頭だっていいし、力も本多くんよりずっと強い。でもね、ふたりの人がいたら、相手のことをよりたくさん感じて、わかってあげられる人のほうが、絶対に強いんだよ。おとうさんは本多くんの気もちがわかっていたかな」
男の子はぼんやりとした表情で、首を横に振った。
「じゃあ、本多くんはおとうさんの気もちはわかっていた?」
少年はうなずくといった。
「ぼくのことが心配で怒っていたのは知ってる。いらいらしてたし」
〈中略〉
「ほらね、そういうときは本多くんのほうがやっぱり強いんだ」
元也の表情がぱっと輝いた。
「強い人は、弱い人の気もちを考えてあげなくちゃいけない。弱い人は自分を変えられないし、相手の気もちになることもできない。だから、先に気がついたほうが、相手のことを守ってあげるんだ」
「ぼくがおとうさんを守る?」
「そう。本多くんは強いから、おとうさんに気もちをあわせて、守ってあげよう。おとうさんは世間は厳しいっていってたよね。無用な人、無能な人は切り捨てられるって。でも、同じようにただ正しいだけの人も、立派なだけの人も、お金をもっているだけの人も、尊敬されないんだ。本多君が、おとうさんを守ってあげよう。おかあさんも守ってあげよう。それができるのは、本多くんの家ではきっとひとりだけだ。いいかな」
いいな、と思ったところは太字にしている。
教員の役割は以上のようなところがあるのだろう。
教育とは純粋培養だろうか。
いや、人がよりよく生きるための社会の実現を目指すものだろう。
それの何が悪いというのだろうか?
いや、何も悪くない。
きれいごとを言うな、という社会に魅力はない
そんなことを思う、七月のあつい夜。