コロナと闘う~カミュ『ペスト』を教本に

 不条理文学といえば、カフカの『変身』を思い浮かべる人が多いだろう。

 目が覚めると主人公のグレゴールが毒虫に変わっていたという不条理な冒頭。しかし、これは個人的な不条理である。グレゴールの家族は毒虫になってはいない。息子が毒虫になってしまったという不条理ともとれるが、あくまで家族は観察者の立場にいる。

 カミュの『ペスト』は集団的な不条理であり、オラン市というアルジェリアのひとつの市に生きる人たちすべてに降り注がれた不条理である。この不条理に人々はどのように立ち向かうべきなのか、そういったことを考えさせてくれる書である。

 新型コロナウイルスが蔓延し、全国に緊急事態宣言が出され、「ロックダウン」という言葉がちらほら聞くようになった。都市の締め出し。もし仮に東京でロックダウンが起こればどうなるだろうか? 今現在、完全な締め出しは行われていないため、都内から他県へパチンコを打ちに行くような輩が出てしまっている。そんなやつらも都内から一歩に出られないような、たまたま東京に遊びに来ていた旅行者すらも封じ込めるような巨大な力による「ロックダウン」が起こればどうなるだろうか?

『ペスト』は今読まれるべき作品である。

 物語の粗筋はここでは述べない。ただ、今の日本の現状と本書の内容がひどく共通するところがあり、もしかすると今の日本に救いの手を差し伸べる光のような存在になり得るかもしれないと思い、あくまで思考のアウトプットの範疇としてブログにつらつら書こうと思う。

 

 天災の前に人は無力だ。

 常々思うが、人は自然には敵わない。判りやすい例が東日本大震災だ。津波を前にして人々は防ぐこともできず、ただ茫然と街が呑み込まれていく非現実的な光景を眺めるだけだった。台風だってそうだ。強烈な台風によりあらゆる建物が崩壊された。私の家のベランダの屋根が飛ばされたこともある。

 だた、そういった自然災害は大きな被害をもたらすといっても、どれも一過性だ。

 天災よりも恐ろしいのがインフルエンザウイルス、現在世間を騒がせているコロナウイルスのような「ウイルス」だろう。ウイルスは目には見えないため、どういう経路で自分が感染するか判らない、更にいつ収束するか判らない。その不透明さが何よりも恐ろしい。

 だが、「ウイルスは恐ろしい」といくら主張したところで、マスコミの不安の煽りと何ら変わらないので、『ペスト』を通じて、この危機的状況をどう乗り越えるべきなのか個人レベル(このブログに国民に及ぼす影響力は皆無なので)で考えていこうかと思う。

 

1.『ペスト』について

 

 

『ペスト』の舞台アルジェリアはフランスの植民地であり、「戦争」にかなり近い距離にあった時代である。『ペスト』はナチスドイツ占領下のヨーロッパで実際に起こった出来事のメタファーとも囁かれているほどだ。ペストも戦争も市民たちが無用意な状態下に起こるといった旨が作中に書かれているが、地震にしても同じことが言えそうだ。人々を恐怖に陥れるものはいつだって足音立てることなく突然やって来る。だが、人々はその災厄を「こいつは長く続かないだろう」と高を括り、楽観的にモノを考えようとする。天災を非現実的なもの、やがて過ぎ去る悪夢と捉える「人間中心主義(ヒューマニズム)」が人々の中で盤踞してしまっているのだ。なるほど、天災というものは人間の尺度と一致しないからだ。『ペスト』では登場人物はあちこちでペストが蔓延しているにも関わらず、市民は街を出歩き、酒場で大人数で酒を飲んだりしている。これもヒューマニズムのせいだろう。こういったことを考えると、今も同じだなと思う。人間は自然があっての人間であることを太古から続く歴史の中のある地点から忘却してしまったのだろうか。科学技術の発達により、人間の脆さが見えなくなってしまっているのだろうか。

 

2.「ペスト」という言葉の威力

 

 言霊という言葉がある通り、「言葉」の持つ力は非常に大きい。言葉はナイフだ、という言い回しがよくされるが、「言葉」は慎重に使われるべきだと個人的に思う。

「ペスト」という病名は医師たちの間では使うのを憚られていた。一度、「ペスト」と公言すれば、その病名が市街、それを超え、世界(とは言い過ぎか)全体を闊歩することになる。そのことに責任を負わなければならない。医師たちはそれを恐れた。

 しかし、そんな保守的な医師たちにリウーは「これは語彙の問題じゃないんです」ときっぱりと言う。「時間の問題です」と。

コロナウイルス」の正式名称は「COVID-19」だ。何度か「武漢ウイルス」と呼ぼうとか「中国ウイルス」と呼ぼうとかそういった案がどこからか出てきたが、問題は名前じゃない。ウイルスの発生源である武漢の名前を冠せようとしてももはや意味がない。そうやって責任を追及したいのだろうが、今すべきことは「コロナ」対策に他ならない。まさに「時間の問題」で放って置けば大変なことになる。まさに「時間の問題」である。

 

3.「ペスト」と市民

 

 リウーの友人でオラン市外の人間であるタルー、新聞記者ランベール、下級役人で作家志望のグラン、神父パヌルー、密売者コタールといった登場人物が出てくるが、彼らは役職や状況、考え方が異なっている。つまり対立も起こる。

 例えば、リウーとランベールの対立。ランベールは妻が市街にいて、封じ込められた市を一刻も早く出たいと切望している。ランベールはリウーに病気に罹患していないことの証明書を書いてもらえないか要求するも、それを断られてしまうという場面がある。リウーはランベールが病気に罹っているか判らないし、たとえ今病気に罹っていなくても、外に出る頃には病毒に感染する可能性があるという理由で断ったのだ。彼の言うことは尤もだが、ランベールが妻に会いたいという思いで外に出たいと願っていることを考えると彼の肩を持ちたくもなる。読者としてはどちらが正義か判らず痛痒感を覚える。

 さて、ランベールはリウーに対してこんなことを言う。

「あなたには理解できないんです。あなたのいっているのは、理性の言葉だ。あなたは抽象の世界にいるんです」

 どういうことか。

 後にリウーは次のように思う。

「抽象と戦うためには、多少抽象に似なければならない」と。

そして、リウーは「ランベールがなるほどある意味においては正しいことを知っていた」というのだ。ランベールの言う「抽象」とは、「幸福に勝る力を持つもの」であり、いわばランベールにとっての幸福に相反するものである。抽象に対して幸福、その逆も然り。そういった対立、いや、戦いこそがペストが蔓延しているオラン市内の構図なのである。

 このことから、「抽象の世界」とは、現実逃避の「理念の世界」であることを指すと同時に、一見相容れないように思える「非現実的な災厄」という意味も包含されていると言えるだろう。「抽象と戦うためには、多少抽象に似なければならない」というリウーの決心めいた言葉の芯も何となく見えてきそうだ。

 次は司祭のパヌルー神父について、キリスト教を信じる彼は「ペスト」についてこう語る。

「今日、ペストがあなたがたにかかわりをもつようになったとすれば、それはすなわち反省すべき時が来たのであります」

 ペストの責任を市民に委ねてしまっている。なるほど、宗教とは便利なものだ。憔悴した市民に天災を神の罰だと捉えさせることで安心させようとする。気休め程度にはいいかもしれないが、宗教が持つ力が大きすぎると、歯止めが効かなくなるのは、「オウム真理教」のあの事件で判ることだろう。自らの反社会的な行動の理非をすべて見えざる存在「神」に委託することもあるくらい(酒鬼薔薇聖斗バモイドオキ神信仰とか)、「神」は便利に使われる。そういえば、石原慎太郎が東日本大地震を「天罰」と言っていたが、あれも似たような理由だろう。不条理を認めたくない深層心理か、それともただの鬱憤晴らしか。

 最後にコタールという人物について述べる(グランはまた後の方で述べる)。コタールは犯罪歴のある人物で逃亡生活を続けていたが、ペストにより街が混乱した今、逮捕されるリスクが減ったことを喜ぶと同時に、ペストに蔓延により恐怖に怯えているのが自分だけではないこと、孤独から解放されたことへの喜びを感じていた。「コロナ」のおかげで富を得ている企業はいるかもしれないが、個人的な感情で「コロナ」の蔓延を喜んでいる人は日本には恐らくいないだろう、とは信じたいが、かなり偏った見方で失礼も承知で考えるとなると、引きこもりがコロナ騒ぎで自分だけが家に籠っているわけではなく、何もできないという苦しみを人々が味わうことになった現況をほくそ笑んでいる……、あり得ると感じてしまうのは、漫画や小説の読み過ぎか。

 ともかく、ここで述べたかったことは、「ペスト」に対し人々の考え方が異なっているということだ。一致団結し、ペストという高い壁を乗り越えようとする連帯感は、ある程度人々の考え方が揃っている必要がある。だが、「ペスト」を直視しようとしない体勢をとっている人や、「ペスト」の蔓延を対岸の火事だと思って娯楽として楽しんでいる人、そういった人が絶望的状況を乗り越えるための足枷となってしまう。「コロナ」だって同じことが言える。一致団結し、みんなで自粛しようとしているところを、休日は遊びに出かけたり、自分は大丈夫とどこから湧いてくるか知れない自信を持って街を徘徊したり、そんな輩が「コロナ禍」から抜け出せない状況をつくりあげているのだ。「ペスト」ではランベール、パヌルー、そして今まで社会に何の役にも立てなかったと言うグランは、保険隊のメンバーとして絶望的状況を何とかして乗り切ろうと奮闘する。彼らの周りの状況が変化し、彼ら自身の心境が変化したからだ。「コロナ」だって、身近にコロナを罹患した人がいないことからと、巨視的に世界の状況を見ることなく、自身を中心とした小さな世界をすべてだと認識し、「コロナ」を軽視している人がもしいれば、コロナはペスト動揺「時間の問題」であることを一刻も早く認めなければならないと強く思う。

 

4.「ペスト」から学ぶこと

 

 ペストは収束する。半年以上の歳月をかけて収束する。だが、「ペスト」にしても「コロナ」にしても、この世から消滅することはない。

『ペスト』はパンデミックが起こる世界を映す鏡である。ここで起きる出来事に一切の誇張がない。医師たちが「ペスト」を認めたがらないところ(不明な病だとして責任逃れをしたい)、上層部がペストの蔓延をどこか楽観視しているところ(リウーがペストを防ぐための措置を必死に求めるが、知事はなかなか動き出さない)、個人的な幸福を求めロックダウンされた市街を脱け出そうとするところ、市民が施政当局に罪を着せるところ、ペストを必要以上に恐れ街往く人たちを避け、時に喧嘩が勃発したりと、おれはペストだと叫んで女に抱き着いた錯乱状態の男が描かれているところ、人間不信の様相を呈してしまっているところ、カフェが「純良な酒は黴菌を殺す」というビルを掲げたり、ハッカのドロップが薬屋から姿を消してしまったところや……、今回の「コロナ」騒動の一連の流れを見て、思い当たる節はたくさんあるだろう。

 こういった災厄の中、市民は足並みを合わせてこの災禍に適応してしまう。しかし、それこそ不幸だとリウーは考えていた。

「絶望に慣れることは絶望そのものよりも悪いのだ」

 まさにこの言葉の通りだ

「記憶もなく、希望もなく、彼らはただ現在のなかにはまりこんでいた。げんに彼らには、現在しかなかった」

 娯楽を奪われ、その状況に慣れ、希望を失い失望の世界と化したオラン市。これが通常だと思うようになった市民は精神的に疲弊してしまう。人間的な部分がそがれてしまう。

 時は現在、コロナ禍により、あらゆる娯楽を奪われた世界では、あまりに娯楽の持つ力が大きかったのか、自身の命よりも社会に奉仕しようとする人間が多すぎるのか、絶望的な状況に慣れるというより、危機感がない、もしくは、気が緩んでしまっている(ある意味では「慣れ」だ)ため、初めこそみなマスクを着用し、手洗いうがいをしっかりしていたのに、やがてこの状況に慣れてしまい、少しくらいならと不要不急の外出をしたり、マスクをつけなかったり、手洗いうがいを怠ったりしているように思える。

 結論はほぼ出てしまっているが、ペストは「絶望的状況であってもその状況に慣れてはいけない」ということ、そして、「絶望的状況は現在であるが、進むべき先は未来であることを忘れないこと」だと思う。それらに加え、前に述べた「一致団結する」こと。人々はみな違った考えを持っているが、「災厄を乗り越えなければならない」という目標はみな掲げているはずだ。○日までに仕事を終わらせるといった先の見える目標ではない分、気が遠くなりそうだが、目標を共有しているという感覚、連帯感(全員で戦っているんだという感覚)を持っていると考えると少しは楽になりそうではある。

 後、作中の内容ではなく史実の話だが、ニュートンはペストで二年間休校になってしまったその期間(本人はその期間の休暇を「創造的休暇」と呼んでいた)で「万有引力の法則」を見出した。こういったふうにコロナにより、人々の生活がガラリと変わってしまった現在、何か創造的なことをするのもいいかもしれない。

「考え方次第」というと、なかなか無責任の響きがあるように思えるが、あえてここでは使わせてもらう。「コロナ禍」による世間の自粛ムードに気が滅入る中、この災厄をみんなが今までしてこなかったことにチャレンジするための転換点として捉えたり、日本人に足りなかったものが浮き彫りになったと考えたり、平和を再フレームするためのいい機会だと考えたり……、と、不謹慎を承知で述べさせてもらったが、まさにコロナをプラスに考えていくことが私たちに求められることだろう。そうでもしないと、私たちの精神がどんどん削がれて言ってしまうからである。

 さて、最後に『ペスト』の最終段落を引用しようと思う。

「事実、市中から立ち上る喜悦の叫びに耳を傾けながら、リウーはこの喜悦が常に脅かされていることを思い出していた。なぜなら、彼はこの歓喜する群衆の知らないでいることを知っており、そして書物のなかに読まれうることを知っていたからである──ペスト菌は決して死ぬことも消滅することもないものであり、数十年の間、家具や下着類のなかに眠りつつ生存することができ、部屋や穴倉やトランクやハンカチや反古のなかに、辛抱強く待ち続けていて、そしておそらくはいつか、人間に不幸と教訓をもたらすために、ペストが再びその鼠どもを呼びさまし、どこかの幸福な都市に彼らを死なせに差し向ける日が来るであろうということを。」

「コロナ」という名のウイルス、いや、不条理が世界に降り注いだ今、私たちは何をすべきなのか、ということを考えたならば、次にそれを乗り越えようと努力する。希望を持って。そして、収束したら祝おう、私たちの勝利を!

 しかし、だ。

 勝利したとしても災禍がもたらした悲劇の記憶、そして災禍の爆弾はいつどこで破裂するか判らないということを、私たちは深く理解しなければならない。

 カミュが残してくれた名著『ペスト』を、心に刻んで。

 

 

ペスト (新潮文庫)

ペスト (新潮文庫)

  • 作者:カミュ
  • 発売日: 1969/10/30
  • メディア: ペーパーバック
 
アルベール・カミュ『ペスト』 2018年6月 (100分 de 名著)