くだらないことはくだらないことではないし、生きがいを与えうるものである

 情報に溢れている社会だから。

 考えないといけないことで山積みの世界だから。

 しないといけないことが多すぎる毎日だから。

 

 朝井リョウ『どうしても生きてる』に収録されている「七分二十四秒め」

 

 明らかに東海オンエアをモデルとしたであろうトヨハシレンジャーなる男五人組のユーチューバーが登場する。

 そのユーチューバーの動画をくだらないとか意味がないと思っていた女主人公がしだいに、彼らの出す動画を心待ちにするようになるという話だ。

 

 女性が女性として生きること。この時代に非正規雇用者として働くこと。結婚しない人生、子どもを持たない人生。平均年収の低下、社会保障制度の崩壊、介護問題、十年後になくなる職業、健康に長生きするための食事の摂り方、貧困格差ジェンダー。生きづらさ生きづらさ生きづらさ。毎日どこに目を向けても、何かしらの情報が目に入る。生き抜くために大切なこと、必要な知識、今から備えておくべきたくさんのもの。それらに触れるたび、生きていくことを諦めろ、そう言われている気持ちになる。

 

 情報に溢れている社会だから。

 考えないといけないことで山積みの世界だから。

 しないといけないことが多すぎる毎日だから。

 

 生きていくうえで何の意味もない、何のためにもならない情報に溺れているときだけ、息ができる。

 

 情報に溢れている社会だから。

 考えないといけないことで山積みの世界だから。

 しないといけないことが多すぎる毎日だから。

 くだらないことで騒ぐ(悪い意味ではないです)ユーチューバーは必要とされているのかもしれない。

 

 世の中にはびこる諸問題に対面し続けることの息苦しさから解放してくれるのは、いつだってくだらないことだと思う。

 

 私はキヨ、レトルト、牛沢、ガッチマンのゲーム実況者のグループ「TOP4」(自称)が好きで、よく動画を見る。当然、そこには学びなんてひとつもない。ゲームを楽しそうにプレイしているのを見るだけである。それぞれの実況者は個人実況がメインなので、TOP4名義で動画を出す頻度はそれほど多いわけではない。だから、毎日毎日、午後五時くらいになると、TOP4として動画が出ていないかいつも気になる。一時間越えの動画が出ていたら、うれしく感じるし、それを見ることが生きがいにもなっている。もはや中毒者の域だ。

 

 情報に溢れている社会だから。

 考えないといけないことで山積みの世界だから。

 しないといけないことが多すぎる毎日だから。

 学びのない、くだらないことに、生きがいを求めている。

 そう考えると、くだらないことは、まったくくだらないことではない。

世界に山積する問題について言及することについて――九段理江『schoolgirl』

 最近、マイクロアグレッションという言葉を知った。

 マイクロアグレッションとは差別の一種で、社会のマイノリティに対して向けられる偏見や先入観が些細に見える言動を指す。

 一見するだけでは差別だとわかりづらく、言った本人に加害の自覚がないというケースも多くある。

 

 たとえば、外国人に見える人に対して、「どの国出身ですか?」と尋ねるといった行動は、無意識の偏見がベースに合って、マイクロアグレッションと言える。

 

 今の社会、不用意は発言は炎上につながる。

 それは芸能人・素人関係なくだ。

 しかも、最近では過去の発言を掘り起こして問題視するというキャンセルカルチャーなんてものもある。

 

 九段理江『schoolgirl』の一節。

 

 

 いろいろな立場のいろいろな事情に配慮した、誰も傷つかない言葉を追求していくと、誰も自分のことなど説明できなくなる。

 

 

 この一文を読んで、そうそうそれそれ、と思った。

 

 たとえば、「私は〇〇大学出身」と言っただけで、「わたしの家庭では大学に進学するお金がありませんでした」と言われるかもしれないし、「ディズニーが好きです」と言ったら、「ウォルト・ディズニーレイシストだった。そんなやつがつくった作品が好きだなんてお前もレイシストだ」と言われるかもしれない。

 極端な話かもしれないが、最近のなんでもかんでも配慮するという風潮を突き詰めたら、以上の例のようなディストピアが完成するに違いない。

 また、そう遠くない未来、「『ドラえもん』に登場するスネ夫の金持ち自慢は貧困層の子どもたちを苦しめる」とか「『クレヨンしんちゃん』のしんのすけの美人に対してデレデレする姿がルッキズムを助長している」とか言われるんだろうか? てか、言われているかもしれないな。調べたらヒットしそうだが、怖いのでしない。

 

 今回は『schoolgirl』についての感想を書いていこうというのがメイン。

 YouTubeで書評家の豊﨑由美氏が第166回芥川賞メッタ斬りで『schoolgirl』の紹介を聞いて、とても面白そうだなと思ったので読んでみた。

 ここ最近の社会問題に触れていて、とても興味深く読めた。

 しばらく純文学から離れていたけど、『こちらあみ子』といい『schoolgirl』といい、良質なものはやはり読んでいて面白い。

 純文学は難しいところはあるけど、いつも心の中にどすんと何か大きなものを残してくれる。

 

『schoolgirl』は意識高い系の娘をもった母親の話だ。

 時代は現在よりも少し未来の話。グレタ・トゥンベリが大人になった時代。

 中学生の娘はグレタを礼賛していて、YouTubeで地球環境問題を取り上げて革命を起こしましょうと視聴者に呼び掛けていた。また、娘はいわゆるヴィーガンで、肉や卵をいっさい食べない。

 そんな娘について母親はこう分析している。

 

 娘は何も動物に対して愛着があるというのではないんです。先生はあまりご存じないかもしれませんが、工場畜産システムの抱える倫理的な問題をシェアするのが、最近のSNSのトレンドになっているんですよ。動物だけじゃなく、社会で不当な扱いを受けている……性差別だったり人種差別だったり容姿差別を受けているような人々の情報を、毎日誰かがシェアしている。ショッキングな文章や映像が娘のタイムライン上にひっきりなしに流れてくるので、それで必要以上に世の中に悲観的になっているだけです。そういう傾向は娘の世代全般に見られるものだし、べつに特別なことではないと思いますが。少し前までのブームは気候変動だったんです。

 

 要するに、娘は『いいこと』をしたいんです。地球にとって、この世界にとって、すべての生命にとって、『いいこと』をする『いい娘』になりたいんです。動物がどうとかいう次元じゃないんです。そういう年頃というか、それがグレタ世代の世界観なのでしかたないんです。そこに私たち大人が口を挟むのは違うかなって思うんですよね。そもそも彼らは上の世代を憎んでいるわけだし

 

 これは医者と話している母親の言葉である。

 医者は母親の語りが断定口調になっていることを指摘し、さらに娘と直接向き合っていないことを批判する。

 また、母親は子どもの発達心理学や親子関係に関する本をひととおり読んできたと言ったことについて医者は「あなたが本を何百冊読んだかって、僕はそんなことを訊いていないですよね。お母さんはどうもご自分の子育てがいちばん正しいと思い込んでいるところがあるな。でも言っておくけど子育てに正解なんてないからね」と言う。

 このセリフを聞いて、私は太宰治の『女生徒』のワンフレーズを思い出した。(ちなみに『schoolgirl』は太宰治の『女生徒』を下敷きにしている文章があったり、後半にそれについて語られているシーンがあったりする)

 

 本なんか読むのを止めてしまえ。観念だけの生活で、無意味な、高慢ちきの知ったかぶりなんて、軽蔑、軽蔑。やれ生活の目標が無いの、もっと生活に、人生に、積極的になればいいの、自分には矛盾があるのどうのって、しきりに考えたり悩んだりしているようだが、おまえのは、感傷だけさ。

 

 これは主人公が自分に対して下している評価だ。

 本なんて読みすぎるものではない。

 それは私自身すごく思っていることである。

 どれだけ自己啓発本を読もうと、自分自身が変わろうとしない限りは自分を変えることはできない。

 むしり、本を読むことで自分がすごい人物になったかのように錯覚してしまうこともあって、極めて危険だ。

 

『schoolgirl』に戻る。

 医者が「あなたが本を何百冊読んだかって、僕はそんなことを訊いていないですよね。お母さんはどうもご自分の子育てがいちばん正しいと思い込んでいるところがあるな。でも言っておくけど子育てに正解なんてないからね」と言うのは、本ばかり読んで子どもについていろいろ知った気になっている母を質しているのだから、かなりまっとうな意見なんだと思う。

 教育現場でもそうだが、結局、経験が何よりも役に立つ。

 経験こそ最高の武器だと思う。

 もちろん経験ばかりに頼りすぎて、悪い事象が起こった際にやり方を変えようとしないのはよくないことだが、本の知識よりも経験が役に立つと私は思っている。

 それでも本を読むのは、時に経験ではどうにもならないときの一助を与えてくれるからであり、知見の幅を広めてくれるからである。

 まず、前者について。私の経験から述べると、『傾聴の基本』という本を読んで、私はよかったと思えることが多々あった。私は今まで人の相談に乗った経験があまりなかったし、あったとしても、なんとかアドバイスをしようと思って、自分の未熟な経験知を語っていた気がする。しかし、人の相談に乗るうえで別にこちらから何かアドバイスを送る必要性はないということをその著書から知った。ただ、話を聴いてあげる、ただそれだけでいいのだと知った。この手法は今とても役に立っている。

 

zzzxxx1248.hatenablog.com

 

 次に後者について。これは専門の分野の知識を深めたり、世界で起こっている出来事を知ったりするといった、経験ではなかなか得られない知を手に入れるためには本がいちばんいいだろう。これは周知の事実だ。

 

 さっきから、本、本、本と言っているが、一応、新書とか専門書とかそういう類のものを示していたつもりだ。

 じゃあ、「小説」を読むことについてはどうだろう?

 

『schoolgirl』の娘はこう言っている。

 

 だって小説は現実逃避のための読み物でしかなく、人を夢の世界に引きずり込む百害あって一利なしの害悪そのもの、現実世界にとっての敵、諸悪の根源じゃないですか? 世紀の大ベストセラー小説、旧約聖書さえ存在しなければ今ごろ自然科学はもっと発展していたでしょうし、物語さえなければ宗教戦争は起こり得ませんよね。

 

 さらに小説好きの母親のことを「小説に思考を侵されたかわいそうな人」と言い、読みたい小説があれば、あらすじとオチだけネットで調べて時間を節約したらいいとか言う。

(この「時間の節約」も最近のトレンドだよね。

 ファスト映画なんてものが一時期問題視されていたが、あれに通じるものがある。

 映画を倍速で観たり、長編の物語の内容をまとめた記事を読むなんてことは、物語の冒瀆にしか思えない(あくまで個人の感想です)のだが。

 多分、人々はやりたいことが多すぎて、娯楽をなるべく短時間で得たいという欲求が働いているんじゃないかな?)
 

 その娘は『女性徒』を礼賛している。

 

 あさ、眼をさますときの気持は、面白い。かくれんぼのとき、押入れの真っ暗い中に、じっと、しゃがんで隠れていて、突然、でこちゃんに、がらっと襖をあけられ、日の光がどっと来て、でこちゃんに、「見つけた!」と大声で言われて、まぶしさ、それから、へんな間の悪さ、それから、胸がどきどきして、着物のまえを合せたりして、ちょっと、てれくさく、押入れから出て来て、急にむかむか腹立たしく、あの感じ、いや、ちがう、あの感じでもない、なんだか、もっとやりきれない。

 

 こんな冒頭。

 すごく特徴的なのは「読点」の多さ。

 娘はこの読点まみれの文章を読んでいると、脳がいつもと違う速度で動くのを感じるという。娘はこうも休み休み、点、点、点と区切りながらものごとを考えたりしないからだそうだ。娘の頭の中には読点などないのだ。言葉は途切れることなく流れて一瞬も止まらない。そう言っている。

インフルエンサーと呼ばれる人たちは確かにみんな早口だ。さっきの「時間の節約」の話に通じることかもしれないが、そういう人たちは短い時間でなるべく多くの情報を伝える傾向にある。たとえば、最近見ないがあのメンタリストもうそうだし、フランスに住んでいる2chの開設者もそうだ。みんな早口だ。彼らの思考はよどみなく、すいすい流れているのだろう、きっと)

 娘は『女性徒』の語り手の読点まみれの文章を読んでいると、自分とは別の思考回路をもった女の子が頭の中に入り込んできて、自分を乗っ取っていく感じがすると言っている。 

 この感覚が、面白い。

 

 きっと、この読点の多さは思考のブレーキを表しているんじゃないだろうか?

 のべつ幕なしに語られるのではなく、語られる中にあえて隙間をつくり、そこに想像の余地を生み出しているのではないだろうか?

 さっきインフルエンサーは早口といった話をしたが、彼らの話し方には隙間がない。隙間がないということは相手に想像の余地を許さないということだ。あれこれ想像させないということは、インフルエンサーの話す言葉をそのままそっくり信じさせるということである。そして、インフルエンサーの言葉を礼賛し、彼らの意見を自分の意見として掲げる。「あなたの言う通りです!」と、思考停止人間になる。

 だが、『女性徒』の語り手の語り方はそうではない。読み手にいろんな想像を許す。そして、その語りは娘の話し方にも影響を与える。それが本作の希望の見えるラストにもつながっているのだが……。

 

「想像」と対極をなす言葉は何だろう?

 きっと「現実」だと思うんだけど、私はあえて「実用」だと言いたい。

 教育分野でもない門外漢の人間が古典不要論を掲げ、実用性のある学びをすべきとか言っていたり、文部科学省もなんか無理に共通テストに実用性を取り入れようと、数学で無意味な対話文をねじ込んできたり、何かと「実用」を重視するようになった。

 しかし、「実用」的なものばかりを学んでどうなるんだ? と思わざるを得ない。

 税金について学ぶ、保険について学ぶ、投資について学ぶ。

 どれもこれも「知識」ばかりが要求させるものである。

 なんだか心が貧しくなっていきそうだ、というのが個人的な感想。

 実用的なものを求め続ければ、「伝統」なるものをいつか失ってしまうと思う。

 初詣にしても七夕にしても、「願いごとをする」という行為自体が科学的根拠に基づかない、何の効能もないということなんてわかりきっていることだが、だからといって「実用」という観点にのっとってそれらを廃止していくというのは蛮行だろう。

 それと同じように学校現場から実用でないものを排していくという行為はそれと同じくらい野蛮なことだと、私は感じている。

 

『schoolgirl』の娘は小説の話をする母にこんなことを言う。

 

「お母さん、今は、小説の話なんかしてる場合じゃないんだよ。なんでニュースを見ないの? 自分には関係ないと思っているから? どうしてそんなに世の中に対して無責任でいられるの? お母さんは、たとえ明日から戦争が始まるっていう日でも、そうやって小説の話をするつもりなの? 本当にそれでいいと思っているならお母さんはおかしいよ、お母さんは、本当に、それで」

 

 世界の裏側では今日を生きられるのがやっとな人たちがたくさんいるというのに、私たちは平和を享楽している。

 確かにそうだ。

 だからといって、今のんきに過ごしている私たちはひどい現実から目を反らすなと言われる立場にあるのだろうか?

 たくさん水を飲めば、水もろくに飲めない人たちもいるんだぞって言われる。

 たくさんご飯を食べれば、何億との動物の命を犠牲にしているんだぞって注意される。

 たくさんプリントをコピーしたら、森林破壊の現実を突きつけられる。

 これは正しい指摘なのだろうか?

 私たちは常に世界の抱える問題に注目して、我がごととして向き合い続けなければいけないのか?

 そりゃ、世界に起きている諸問題に対して、我関せずという態度はよくないのかもしれないが、日々生きる中で、そういった問題を忘れて過ごしてしまうことはよくある。

 だって、そういった大きな問題よりも、自分に降り注ぐ問題の方が大事だ。

 

 最後に娘は改心というか、少し考えを改めるようになって、

 

 世界にはもっと解決しなければいけない問題が山積みで、貧困や、飢餓や、強制労働から救わなければいけない人たちが何百万人というのに、最終的には私だって、自分のとったひとりのお母さんのほうがよっぽど心配で大事だ。

 

 だと言うようになる。

 

 見知らぬ人五人が殺されるか、自分の愛する人が殺されるか、天秤にかけられたとき、人は間違いなく、自分の愛する人を救うだろう。

 ここに功利主義もくそもない。

 最終的に働くのはエゴイスティックな心だ。

 

 結局、人間は論理的ではないのかもしれない。

 つい最近、朝井リョウの『どうしても生きてる』の「健やかな論理」を読んだからこそすごく思う。「健やかな論理」にこんなフレーズがある。

 

 発生した原因に悪意の欠片も過去もトラウマも何もない、人を傷つける言葉。恵まれない子どもたちのために学校を建てたその手で握る性器やナイフ。

 健やかな論理から外れた場所に佇む解しか当てはまらない世界の方程式は、沢山ある。

 

 

朝井リョウは純文学でもいけそうな文章表現、感覚を持っていると思う。)

 

『schoolgirl』の娘のように、俗に言う「~しないといけない」といった使命感をもった人たちは「健やかな論理」を持ちすぎているし、それに縛られている気がする。

 環境破壊が進んでいるから~しないといけない。

 貧困な子どもたちが多くいるから~しないといけない。

 世界にはらむ多くの社会問題に首を突っ込んでいき、そのたびに嘆き、何とかしないといけないと言い続ける。

 すると、不思議と、自分が徳の高い、やさしい人間になった感じがして、そんな自分に陶酔する。

 これ、ミスチルの「彩り」のフレーズにもあったよね(省略)。

 

 でも、ほんとうに大事にしないといけないのは何か? 

 世界に山積する問題はきっとこれからも解決されないままだろう。

 そう考えると、じゃあ、社会の問題に対峙し、なんとかしないといけないと考える自分ってなんなんだろう?

 

 今、この瞬間には何の意味があるんだろう

 

『schoolgirl』の娘はそんな疑問にぶつかった。

 その解決策は自分で見つけていて、それが

 

 頭の中からできるだけ自分をなくす

 

 という方法だ。

 

 まず、自分じゃない誰かをひとり、集中して想像してみるんです。そして、その人は必ず、文章を書いている人、っていうのが大事なポイントで。どんな文章でもいいの、日記でもいいし、物語を書く、小説家みたいな人でも、なんでも、好きにしていいですよ、何かを書いてさえいれば。その人が、寒い雨の日に部屋の机の上で、それか混み合うカフェの席で、揺れる電車の中で知らない他人に囲まれて、ペンを持って、キーボードを叩いて、スマートフォンを握る片手で、文章を書いている。とにかくそういうふうに、強く、目の奥が痺れるくらいに強く強く、イメージし、次はこう考えるんです。私は、この私の意識を持った私は、その誰かによって書かれる文章の、登場人物なんだというふうに。私の心とか、体とか、そういうものは全部その人によって、書かれていくんだと。

 

 娘の考えにはずいぶんと想像力が働いている。

 まるで夢想家のように。

 ずっと、読点のない、のべつ幕なしに社会問題を語っていた娘が、ついに想像力を駆使するようになったのだ。

 これは現実逃避ではないと思う。

 世界は論理的に破綻している。

 そんな世界を生きるために必要なのは「~すべき」「~でしかない」「明らかに~」といった断定表現ではなく、「確かな自分を形作る」行為ではないか。

「確かな自分」というのは私の発想である。

(自分をなくすことで確かな自分に気づくということ!)

 

 人と話すことで得られる安堵感、楽しいことに巡り会えた幸福感、人と衝突して感じた嫌悪感。そんな日常の中で得られるさまざまな感情。この積み重ねこそが自分を形作るものであると思う。ニュースを見て、本を読んで、得られる「~しないといけない」という思いは、きっと自分の器には見合っていない。だって、貧困や飢餓、環境破壊、どのニュースよりも、身近な人の身に起きた不幸の方が大きなニュースだから。

 

 だから、等身大の自分を生きられたらいい。

 

 それが自分を生きることであると思う。

 

 気張って生きる必要はない。

 

 でも、きっと、誰かによってこの考え方は「無責任」だと言われる。

 

 

 

沈殿を見よ

 カルガモの親は子を殺すことがある。

 

 トリビアの泉みたいな書き方をしたが、事実だ。

 YouTubeで検索をかけたらヒットする。けっこうショック。

 種の存続のために必要な行為だというが、実際、それを目の当たりにしたら衝撃だろう。

 しかし、それはあくまで人間サイドがカルガモの親子を「かわいい」ものと勝手にとらえていたせいであり、カルガモサイドからすれば子殺しは恒常的に行っていたのであって、人間がカルガモの子殺しを知り、裏切られたような気持ちになるのはきわめて滑稽である。

 事実として、ずっとそこにあったのを、ある一面だけの景色を抜き取って、それを「かわいい」と評し、それこそ「すべて」だと思い込んでいた人間側に問題がある。

 まさに試験管のきれいな上澄みばかり見て、沈殿物を見ないような……このたとえどうだろうか?

 

 Instagramにしても、きれいな景色を撮った写真をアップしたり、楽しそうなパーティーの写真をアップしたりしているが、その一瞬の画に幸せが詰まっていて、現状の生活に納得がいってないひとがそれを見れば憂鬱まったなしなのだが、Instagramを撮った側は日々しんどい思いをしてきて、やっとたどり着けた「至福のとき」を撮影したのかもしれない。

 

 とても楽しそうに笑うあの人も、ついさっきまでは失意のどん底にいたのかもしれない。

 

 抜き取られたものがいかに幸せに見えようと、それが永遠に続いているであるはずがない。それなのに抜き取られたものが永遠であると勘違いしているひとが非常に多い。

 

太田肇『「承認欲求」の呪縛』

 承認欲求という言葉が最近いろんなところで使われている。

 特に若い子たちの間で使われている気がするのは気のせいだろうか?

 正月に「おもしろ荘」という番組がやっていたのだが、そこに出てきた「ぱーてぃーちゃん」、今風のトリオだなとか思いながら、何となくはまっている自分に気がついた。

(一世を風靡して、さっと散り行く姿も描けそうではあるのだけど。)

 で、何の番組か忘れたけど、別番組でそのぱーてぃーちゃんが出てて、真ん中の男性が「承認欲求の権化」というツッコミ(?)をしていて、「承認欲求」ってもはや一般的な言葉なんだなとか思った。

 ということで、今回は「承認欲求」についていろいろ書いていこうと思う。

 新潮新書の太田肇『「承認欲求」の呪縛』をベースに述べていきます。

 

1.承認とは?

 そもそも承認とは何か?

 それは、相手の意思によるものである。

 自分がいくら認められたいと思っても、いくら努力しても、相手が認めてくれなければ承認欲求は満たされない。そして、いくら大きな権力や経済力があっても、力ずくで承認を引き出すことはできない。逆に、自分が望まなくても、相手から一方的に承認される場合もある。

 つまり、承認は他人に依存する欲求である。

 この欲求に縛られる日本人は多くいる。

 それは日本の組織・社会は、人間関係が濃密で、人々の共有する「空気」が濃いからである。

 

 人は認められると、大きく変わる。

 褒められたらうれしくなるし、自己効力感・自己肯定感は上がるし、自分の存在意義を見出せることだろう。さらに次の仕事なり勉強なりのモチベーションアップにもつながるし、いいことづくめ。

 日本人は自己効力感、自己肯定感とか自尊感情が他国に比べて低めである。

 これはつまり自分に自信が持てなかったり、自分自身を認めることができていないということだ。だから、日本人は承認を求めて、それが得られないことを深く嘆く。

 そもそも自己効力感とは何か?

 それは「やればできる」という自信である。

 この最大の要因は成功体験である。実際にやってみて、成功したら自信がつく。しかし、同じことを成し遂げても自分自身ではその価値がわからない場合がある。そんなとき他人からほめられると、「やればできる」という自信がもてるようになる。それが新たな意欲を掻き立て、また不安を和らげることにもつながる。

 勉強面でもそうだ。生徒の立場で、教師から成績をほめられると、モチベーションアップにもつながる。

 だが、承認欲求が満たされなくなってしまったら、どうだろう?

 羨望や嫉妬、それに意地や面子といった屈折した形であらわれてしまう。勉強ができるようになった友だちを気に入らなくなった理、仲のいい同期生が先に昇進したら口をきかなくなったりする。

 とにかく「承認欲求」はかなり強力である。

 マズローの欲求階層における最上位の「自己実現欲」よりも断然「承認欲求」の方が存在感がでかいと思える。

 この承認欲求について、かのパスカルも触れている。

 

「人間の最大の下劣さは、栄誉を追求することである。だが、これこそまさに、かれの優越の最大のしるしである。なぜなら、人はいかに多くの物を地上で所有しても、いかに健康や生活の安定をえても、他人から尊敬されないかぎり、満足しない」

 

 

 かのホッブズも、人間のもつ誇りが争いの一因だと喝破していて、とにかく承認欲求は私たち日常生活レベルだけでなく国家間の関係まで、存在感を発揮していると言える。

 

「承認欲求」は複数の要素からなる。

 マズローのいうように、承認欲求は、他人から認められたい、自分が価値のある存在だと認めたいという欲求である。それは実生活においていろんな形であらわれる。

 出世したい、名誉や名声が欲しいという欲望であったり、自分の存在感をアピールしたいという自己顕示力であったり、はたまた日常的に自分の個性や能力・努力を認めてほしいといった感情としてあらわれたりする。

 そして、認められたいという欲求が直接満たされない場合には、他人に対する羨望や嫉妬、意地のような屈折した形で表面化することもある。

 もう一つの特徴としては、承認はほかの欲求を満たしたり、いろんな目的を達成したりするための手段になることがあげられる。たとえば、承認されることによって自己効力感が得られるし、仕事や活動が楽しくなり、内発的モチベーションが高まる。

 承認とはたとえていうと「鏡」だ。鏡をとおして自分の顔や姿を見ることができるように、他人や周囲から認められてはじめて自分の実力や実績を知り、それらがどれだけ価値のあるものかを理解できる。さらに他人から認められると、他人への発言力や影響力も大きくなり、やりたい仕事ができるようになる。さらに他人を支配したいという支配力、異性を引きつけたいという欲も満たせる。

 そして承認されれば、金銭が得られるようになり、衣食住に関わる生理的欲求や安全欲求も充足できる。それだけではなく、社会的に認められることで自己実現、すなわち自分の潜在的な能力の発揮にもつながる。

 社会の役に立ちたいという思いをもった人も、看護や介護を通して、その相手から感謝の言葉をかけられることで、努力が結果として報われなかったりすることへの無力感、徒労感から救われる。ここでは感謝や尊敬という形で承認を受けることになる。

 

2.承認をめぐるトラブル

 

 だれでも能力、実績、容姿、学歴、社会的地位など自分が誇りに思っているところを認められたいものである。

 以上のことは別に他人に迷惑をかけたり、法を犯しているわけでもないので、別に構わないが、ときには「承認欲求」による行動で一線を越えてしまうときもある。

 たとえば、SNSで注目されるためにアルバイトの店員が食品にいたずらをしたり、わざわざ危険な行為や破廉恥な行いをして動画サイトに投稿したり、といった行為だ。

 さらには神戸連続児童殺傷事件や秋葉原通り魔事件など、これらの犯人の背景にあったのも承認欲求だった。

 このような世間から注目されたい、存在感を示したいという動機による事件は枚挙にいとまがないほど存在する。

 

 芸能人や有名人の子が事件を起こすときがある。

 親が偉大だったり有名だったりすると、その子はどうしても親と比較されるので、少々頑張っても注目されないし、賞賛もされない。(なんなら結果を出しても、親のおかげだとか言われてしまう)

 そういったふうに世間で認められないのに、家庭内においても存在感が希薄になってしまう。親の存在が大きすぎると、自分がどれだけ収入を得ても経済的な貢献には寄与することにはならない。偉大な親をもった子は、承認される機会が乏しいのだ。

 だったら、まっとうな方法で承認が得られないなら、奇抜な行動をとってやろう、というわけなのである。

 バカッターとかもそうだ。隠れた承認欲求、それも自分自身を知りたいという素朴な欲求が、彼らを反社会的な行動に駆り立てているのだ。

 

3.承認欲求を満たすために

 

 承認欲求を満たすためには叱るよりも褒める方がいい。 

 端的に言えばそうなのだろうが、一概にはそうも言えない。

 教育現場では子どもたちの自己肯定感や自尊感情の低さが問題視され、児童・生徒をほめて育てようという気運が高まっているが、その効果には副作用もついてくる。

 ずっと無遅刻無欠席を続けてきた男の子がいて、親はそれが何よりの自慢だったそうだ。しかし、それが負担に思えて、欠席が増えてしまったというケース。水泳大会で勝ち続けてきた女の子がいて、その子はコーチに期待されていたのだが、女の子はコーチのためにがんばっているような気がしてしまって、泳ぐことの楽しさを失ってしまったというケース。幼い頃から絵が得意だった子が、先生にほめられることで、ほめられることを意識してしまい、個性が消えてしまったケース。

 ほめることで、それがプレッシャーになってしまったり、ほめられることを意識してしまったりと、「ほめる」という行為は時に悪い結果をもたらす。

 成績がいい子をほめていけば、比例的に成績が上がっていくわけではない。そこに期待が加わり、成績を落としてしまうかもしれない。このプレッシャーをもたらす一つの要素が「認知された期待」である。その期待は実績に応じて高くなる。よく「慣れたら大丈夫」と聞くが、それを上回るほどの周囲の期待が大きくなれば、ストレスはかえって大きくなるのだ。

 

4.なぜ承認にとらわれるのか

 承認によって得られたものの多くは、承認されなくなったら失われる。

 承認されることによって、内発的モチベーション、自己効力感・自己肯定感、評価・処遇への満足度の向上、仕事の成績の向上…以上のような結果がついてくる。

 承認を失うと、以上のものすべてを失う。

 さらに、他人を思うように動かしたいという支配欲、豊かで安定した生活を送りたいという安全・安定の欲求、異性を引きつけたいという欲望なども承認によって満たされるケースが多い。そのため、それらも失う可能性が高い。

 承認されなくなることへの恐怖があるからこそ、歪が生まれる。

 歪。

 たとえば、大人社会でもあるのだが、子ども社会ではびこる「いじめ」。

 多くの子どもにとって、学校は最も重要な「世間」でえあり、その中心はクラスや友だちのグループである。そこで同じメンバーが長く過ごすうちに、自然と独自の掟や慣行が生まれる。

 そのなかで子どもたちは徐々に自分のキャラが受け入れられ(あるいは周囲によってつくられ)、自分に対する周囲の評価も定まっていく。そして、仲間との人間関係のなかで演じるべき役割もおのずと決まっていく。

 集団のなかにある掟や慣行、仲間内での評価基準には、大人が気づかないほど微妙なものや、大人の視点からは滑稽に思えるもの、あるいは危険なものも含まれている。いずれにしても、子どもの世間における評価と大人社会のそれとは、尺度も重みも大きく異なる。

 一方で子どもは家族の一員でもある。家族内からは「明るく元気な子」といった評価を受けているとすると、子どもはそうだと受けとめる。ところが、その子が学校内ではいじめられているとする。果たして、「明るく元気な子」という評価をもらっている家族に、仲間からいじめられたからといって助けを求めることができるだろうか。

 助けを求めるということは、築いてきた高い評価や尊敬、すなわち承認をすべて失うことになりかねない。だったら、いじめられるのを我慢した方がましだと思うわけだ。

 また、いじめている方にフォーカスしてみると、実はその集団の中に分別を備えた人間がいたりする。しかし、集団のなかで認められるには、いじめる側に立たなければいけない。集団のなかで認められたいという承認欲求がここでは働いている。

 

 承認欲求は「尊敬・自尊の欲求」である。

 他人からの承認と自分自身の価値を認める自己承認や自尊感情とが密接な関係にあることを意味する。したがって他人からの承認を失えば、自分の存在する価値が感じられなくなる。自分が自分でなくなる。

 こういった承認欲求の特徴を勘案すれば、子ども世界におけるいじめの心理が見えてきそうである。

 

5.社会にはびこる承認欲求

 

 ブラック企業

 労働時間を超えて働くという現況が社会問題となっている。

 また、有休を消化しないという人も多くいるそうだ。

 その理由として、「休むと職場のほかの人の迷惑になるから」とか「職場の周囲の人が取らないので年休が取りにくいから」とか「上司がいい顔をしないから」という回答がある。多くの人が上司や同僚への気遣い、換言すると消極的な形で「周りから認められるために」残業したり、休暇をとらなかったりしているのが実態だ。

 さらに「やりがい搾取」なるものも問題だ。

 仕事の中で自己実現をしようとする心理を職場に埋め込んだ構造のことだ。

 認められ、期待されることを意気に感じる心理を利用して報酬と不釣り合いな責任を持たせたり、貢献を引き出したりするのは「承認欲求の搾取」だと言える。

 また、うつ病適応障害も問題になっている。

 うつ病の発症に関する研究では「どんなに厳しい状況でも、課せられている役割や周囲の期待は裏切られないという考え」と述べられている。ここにも承認が絡んでくる。「認知された期待」と自己効力感のギャップが大きいほど、そしてギャップを強く意識するほどプレッシャーは大きくなる。うつになりやすい人は「期待を裏切れない」と強く依里記するだけに、承認がかえってうつになるリスクを高めてしまいかねないのだ。

 他人からの期待は、「彼ならどんなに無理をしてもやってくれるはずざ」といったふうに、人格や人間性にまで及ぶ。どれだけ貢献したら「返済」がすむという明確な基準もない。それだけ人格や人間性への浸透性、粘着性が強いわけだ。

 したがって期待によるプレッシャーは、お金や物などの「借り」よりもいっそう、うつになるリスクを高めるといえる。

 過労自殺に至るまでのプロセスがここに詰まっている。

 

 実は過労自殺した人の特徴とひきこもる人の特徴はきわめて似ている。

 ひきこもる人は、社会から逸脱する反体制的なタイプではなく、人一倍、逸脱を嫌う傾向がある。また学校にまじめに出席して、まじめに授業を受け、まじめに宿題をするという行動形式がみられること。そのため「学校に行かなくてもいい」「成績が悪くてもいい」「いじめのない集団に移動する」といった選択肢が封じられる。それがひきこもりを生み出す。

 バーンアウトする人にも共通点がある。バーンアウトの問題として俎上にあがるのは、看護師や教師などのヒューマンサービスに携わる人たち。患者や児童・生徒から頼りにされ、感謝される。だからこそ、自我関与の高い人、自分自身の問題と受け止めやすい人ほど、期待に応えたい、信頼を裏切りたくないという意識が強く働く。

 その結果、ついつい無理をしてしまったり、望ましい結果にならなかったときに深く落ち込んだりする。心をこめて精一杯努力したのにダメだった。自分はなんて無力なのだろうと感じるわけである。

 うつ、ひきこもり、バーンアウト

 どれも、外からの期待や自分の行動基準を容易に下げられない人、つまり、容易に開き直れない人だ。

 

 エリートと呼ばれる人がいる。

 彼らもまた承認欲求の被害者である。

 昔から「学校の勉強ができるのと、仕事ができるのは違う」と言われてきた。しかし、昔は高度な仕事においても受験秀才は力を発揮した。豊富な知識があれば、答えの決まっている問題を解く能力があれば、多くの仕事は問題なくこなせたからだ。

 しかし、最近は、価値の源泉がソフトウェアになり、定型的な業務や単に知識を応用すれば済むような仕事はアウトソーシングするか、ITのシステムがこなすようになった。さらにITが進化し、AIやIoTが普及しつつある今日、論理的な思考力や問題解決能力さえ、それらが人間にとって代わろうとしている。

 いまの時代の最先端を行く仕事で求められているのは、勘やひらめき、直感、感性、独創性、創造性などである。それらの能力や資質はITに代替されにくく、教育で身につかせることも難しい。

 だから、仕事で求められる能力や資質と、受験秀才型人材の秀でているそれとの間の隔たりが大きくなり、その現実を受け入れざるを得なくなったとき、エリートはドロップアウトしてしまう。エリートは経験上、努力によって積み重ねてきたという過去を持っている。しかし、社会におけるあらゆる不確定な事柄と対峙したときに、そのような環境を経験していないため、戸惑いを覚えてしまう。しかし、周囲を失望させたくはないと思い、期待を下げることはできない。身の丈を超える大きな期待を下げれば少しは楽になるものの、プライドがそれを邪魔をする。そして期待に応えられないと自己効力感は低下して、その結果「認知された期待」と自己効力感のギャップはますます拡大する、という負のスパイラル!

 

「認知された期待」と「自己効力感」、そして、そのギャップが大きくなり、それを問題であるかどうかを捉える「問題の重要性」。

 この三つが承認欲求の呪縛の三要素である。

 

6.呪縛を解くカギ

 

 日本人は「期待」に潰されやすい。

 承認欲求の呪縛に陥るのは、「認知された期待」と「自己効力感」のギャップが大きいとき、すなわち期待の大きさを実感している一方で、それにこたえられる自信がないときである。そして、「問題の重要性」、つまり期待にこたえられないことを本人が深刻な問題として意識していた場合、本人は潰されてしまう。

 呪縛から逃れるために「認知された期待」を下げ、「問題の重要性」を下げる仕組みを備えなければならない。

【「認知された期待」を適正な水準まで下げる】

 一つめの方策。

 大きくなりすぎる期待を自らコントロールし、自分のキャパシティに見合った水準にまで下げることだ。ただ、期待をかけるのは周囲なので、「認知された期待」をコントロールできるのも周囲。

 たとえば、成績優秀者に賞金を渡すシステムだと過度な期待を与えかねないが、「君の過去の貢献に感謝したいだけ。将来の貢献を期待して表彰したわけではない」と声をかけるだけで、過剰なプレッシャーを与えないだろう。こういったことができるのは周囲だ。

 ほかの期待の重みから解放する役立つツールは、「金銭」である。承認は「無形の報酬」であり、ほめてもらうことじたいに価値がある。しかし、ほめるだけで満足させようとするのは「承認欲求の搾取」だと批判を浴びる恐れもある。そのため、貢献には金銭で報いるべきだというのは筋が通っている。また、金銭には人間を人格的な服従から解放する機能があると、ジンメルが説いている。

 しかし日本人はお金よりも「承認」を重要視する。経済的損失と引き換えに承認を得ようとする。お金よりも名誉の方が大切だ。(会社の隠ぺいを手伝うとか)

 ならば、承認と引き換えにわざと経済的損失をこうむるような行為をさせないこと、すなわち経済原則を徹底し、会社との間に「貸し借り」をなくさせることで「承認欲求の呪縛」から働く人を解放できるはずである。

 筆者は、純粋な「成果主義」に近い報酬制度を取り入れることができれば、期待の重荷から解放されると述べている。ならば、自ら成果を落として、それに応じた報酬を受け取ると言ったスタイルならば承認欲求の呪縛にもとらわれることはない。

 

【「自己効力感」のアップ】

 二つ目の方策。

 自己効力感、すなわち「やればできる」という自信をつけるのに最も大切なものは成功体験である。その成功体験をする機会が乏しいことが自己効力感を抱けない一因である。

 背景にあるのは、社会や組織の構造。

 ゼロサム型の組織や社会(※ゼロサムとは「一方が利益を得たら、他方は同じだけの損をして、全体としてプラスマイナスゼロになること」。)のもとでは誰かが活躍すれば、誰かがそのしわ寄せを受けるので、必然的に「出る杭は打たれる」体質の風土になりやすい。こういった風土のもとで戦い抜くには「周囲との競合を避ける」ことが大事だ。閉ざされた組織の中でも、一人ひとりの目標やキャリアが競合しなければ、他人の足を引っ張る動機は生まれない。組織のなかで出世したい人、専門職を目指す人、ゆとりのある生活を送りたい人など、それぞれが自分の道を歩めばいいからだ。

 また、日本人の自己効力感が低いのは、承認が不足しているところにも原因があるといえる。そこからくるプレッシャーが数々の個人的・社会的な問題を引き起こしているとしたら、事は重大である。それだけ意識的に認めたり、ほめたりすることが大切なのである。

 どうほめるか?

 能力や成果をほめるのではなく、努力をほめる、と教育現場で言われる。

 能力や成果をほめると、期待を裏切らないため、そして自信をなくすのが怖いため、失敗のリスクをともなうのに挑戦しないようにするからだ。

 かといって、努力をほめるとなると、「がんばらないといけない」というプレッシャーで学校に行けなくなったりするかもしれない。

 

 じゃあ、どうすればいいのか?

 具体的な根拠を示しながら潜在能力をほめるのだ。

 潜在能力をほめることは、「やればできる」という自信をつける。すなわち自己効力感に直接働きかけることを意味する。自己効力感が高まれば挑戦意欲が湧く。かりに成果があがらなくても、潜在能力に自信があれば、成果が上がらないのは努力の質か量に問題があるからだと受け止められる。そして、改善への努力を促すことができる。

 また、他人のために役立った、そして認められたという経験は、それだけ大きな自信につながる。成功体験に裏打ちされた自信があれば、期待に潰されにくくなるのは確かである。

 

 また、とある荒れた中学校で保育園と連携して、生徒たちの自己肯定感・自尊感情を高めるプロジェクトを実施したという事例がある。生徒たちは、どうすれば園児たちを楽しませたり役だったりできるかを計画し、それを自分たちで実践する。そういった活動を通し、園児から頼りにされるという経験を得、自己肯定感・自尊感情が上がり、学力も上昇したという。

 他人のために役立った、そして認められたという経験は、それだけ大きな自信につながるわけである。成功体験に裏打ちされた自信があれば、期待に潰されにくくなる。

 

【「問題の重要性」を下げる】

 問題を相対化させる。

 たとえば、大学受験の際に、「〇〇大学」に絶対に合格するといった大きな目標を掲げてしまうと、周りからのプレッシャーに押しつぶされてしまうかもしれないが、「偉大な科学者になる」といった将来の夢を持てば、そこへ辿る道筋はひとつではないことがわかってくるし、受験だって何度でもチャレンジすればよいという大きな気持ちになれる。すると結果的に受験のプレッシャーは軽くなる。

 また、失敗体験も大切である。

 エリートは今まで大きな挫折を味わったことがない。そのため、社会に出てあらゆる問題と対峙して、それにやられてしまう。

 教育現場でも、「成功体験」の大切さばかりが強調されてきた。たしかに自信をつけるのに成功体験は大切だが、「失敗体験」を積んでおくのも大切だ。そのためにはいくら実力がついても、失敗するリスクをともなう高い目標にチャレンジし続ける姿勢を忘れてはならない。

 また、「楽しむ」という姿勢も大事だ。

 こんな記事がある。

 日本に足りないのは「めっちゃ楽しそうにサッカーをする下手なおっさん」 欧州で目撃した、勝利(とビール)を真剣に目指す大人たち - 海外サッカー - Number Web - ナンバー (bunshun.jp)

 

 この記事にも少し関連するけど、「楽しむ」姿勢は大事である。

 仕事を真剣にこなすのは大切なことかもしれないが、周囲の期待や評価とは関係なく、その仕事を「楽しむ」。楽しんでやれば、仕事に対するプレッシャーを感じなくなるのではないだろうか?

「楽しむ」ことの効用はそれだけではない。人間は一つの活動に没入している「フロー」状態のときに潜在能力が最大限に発揮される、と心理学者のチクセントミハイは言う。「楽しい」、つまりそれこそ「フロー」状態である。

 

 また、「もう一つの世界」をもつことで、問題を相対化できる。

 サードプレイスと言う言葉がある。

 家庭(第一の場)でも職場・学校(第二の場)でもなく、第三のとびきり居心地のいい場所のことだ。学校でも家庭でも居場所を感じられなくなったら、校外やクラブや塾などに所属するか、SNSなどで外部の人たちとネットワークを築いておく方がいい。そうすることで自分を守れるし、承認欲求の呪縛からも解放される。組織や集団への依存度を下げることで、「認知された期待」と「自己効力感」のギャップが大きくても、強いプレッシャーを感じずに済むのだ。

 しかし、SNSをめぐる問題もある。

 自ら暴走運転や奇行をしてそれをネットに投稿したりするということである。承認欲求を満たしたいがための異常な行動。リアルな世界で認められていたらリスクを冒そうとまではしなかったであろう。

 このことから、ネットというバーチャルな世界と、リアルな世界とが代替する、あるいは補い合う関係になればよいのである。

 その意味では、二つの世界がかぶらないことが大切で、学校で問題になっているSNSによりいじめなどは、たいていがクラスの仲間か、学校内の先輩・後輩とかの間で起こっている。かりにSNSが学校と無関係ならいじめは起きなかっただろうし、たとえいじめられてもリアルな世界に戻ればよかったのではないか。

 もっとも、リアルな世界に居場所が見いだせないからこそ、ネットの世界にそれを求めた人が多いのも事実だ。それなら、せめて複数のSNSを使い分けるようにすれば「承認欲求の呪縛」を軽減できるはずだ。SNSは青少年を非行に導くなど、別のリスクも潜んでいるが、だからといってSNSの利用を禁止するのではなく、学校や家庭では身を守る方法や正しい使い方を教えておけばよい。

SNSは批判の的になるが、このようにつながりを感じられる居場所であるということも考えると、いい役割を担っている感じがする。実際、YouTubeで「死にたいときに聴きたい曲メドレー」みたいなタイトルの動画のコメント欄を見ると、生きづらさを抱える子どもたちが多くコメントを残していて、自分と同じような気持ちの子どもたちが多くいることに安堵している子もいる。)

 

7.最後に

 

 承認欲求にとらわれることで苦しむ人が多い中、この本はその呪縛から説くカギについて語られていた。

【「認知された期待」を適正な水準まで下げる】

【「自己効力感」のアップ】

【「問題の重要性」を下げる】

 この三つを胸に刻むことで、少しは承認欲求の亡霊から逃れることができるかもしれない。

 だが、どれも考え方に依拠するものであり、自分自身が考えを改めようとしない限りは、承認欲求から逃れることができないのは確かだ。

 考え方を改める。

 これほど難しいことはない。

 まさに言うは易く行うは難し、だ。

 

 

 

21世紀を生きる 『クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶモーレツ!オトナ帝国の逆襲』

 昔からクレヨンしんちゃんが好きだった。

 漫画は全巻持っているし、途中まで映画はすべて見ていた。

 その映画の中でも大好きなのは『クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶ モーレツ! オトナ帝国の逆襲』だ。

 この映画ではマサオくんがバスを運転するときの覚醒シーンが有名だが、私としては、ある晩、テレビで「明日の朝、お迎えにあがります」と放映され、ヒロシとみさえが急に取り憑かれたように豹変するあのシーンの方が衝撃が大きかった。

 

 この映画では「子ども」と「大人」の対立構造が如実に描かれている。

 まず、20世紀博と呼ばれる大人たちが子どもの頃を懐かしむことができるテーマパークが埼玉にでき、世の大人たちはそこで満喫する。しかし、子どもの方は、大人たちの言う「懐かしい」を共有できないので、至極退屈だと感じている。

 この分断がよく描かれている。

 私が子どもの頃は、けっこうノスタルジーな雰囲気、三丁目の夕日のような昭和の風景に憧れを抱いていたし、昔の音楽も親の影響でよく聴いていたので、この映画を変な感じで味わっていたのだが、再視聴し、子どもの視点(つまり、しんのすけ視点)に立ってみると、なかなかホラーだなと感じた。大人たちが幼児退行したかと思えば、大人たちに捨てられる。怖い、の一言につきる。

 

 風間トオルくんが「懐かしいってそんなにいいものなのかな?」と言っている。その通りで、子どもにとって「懐かしい」という感覚はない。子どもたちにあるのは「今」と「未来」だけだ。

 大人になると、よく「昔はよかった」と言い出す、と言われるが、その感覚は今になってよくわかるようになった。もちろん、高校生ぐらいのときからその感覚はわかっていたつもりだが、最近は、教師をやっていて、生徒とのジェネレーションギャップを感じるたびに、そう思う。

 昔はたいてい美化される。

 だから昔を懐かしむのだ。

 ……と、そういった理由もあるのだろうけど、一番は「今」と「未来」に夢を抱けない社会になっているからではないか? だから、懐古趣味に走るのではないだろうか? いわば、現実逃避なのだ。

 映画の中でも、敵役(というには魅力的すぎるのだが)のチャコは現在の21世紀を嫌っていて、現代人について「心が空っぽだからもので埋め合わせ、いらないものばかりつくって心が醜くなっていく」と評している。同様にケンも現代を「汚い金と燃えないゴミに溢れている」と、20世紀に憧れていた夢の21世紀との乖離に嘆いている。

 そこでケンとチャコはリアルな20世紀を思い起こさせる「懐かしいにおい」を使って、黄金の20世紀に時を戻そうとする計画を立てるのだ。

 いわば、ケンとチャコの子どもたちの未来を度外視した利己的な計画である。

 しかし、その計画はしんのすけによってつぶされる。

 まだ大人になっていない、未来に希望を持っているしんのすけに。

 

 この映画を端的にまとめると、「現実を嫌い、未来に夢を持てない大人の計画を、未来に夢を見る子どもが阻止する」映画である。

 

 私自身、来たる未来にそれほど希望を持っていない。

 これからどんどん変な方向に未来は進んでいくんだと思う。

 その顕著な例が、最近ずっとこのブログで言い続けている「多様性」をめぐる問題。

 さらには物騒な事件が立て続けに起こっていることや、スマホなどの機器をめぐる多様化された犯罪が後を絶たないこと。

 時代が進化するにつれ、今まで起こらなかったことが起こっている。

 スマホの普及で、子どもたちはなんだか淡白になってきている(教育現場で肌身をもって感じている)。

 現実に「希望の光」がないのに、どうやって未来に希望を抱けようか?

 でも、いくら悲観しても未来は来る。

 それでも、未来を生きないといけない。

 この未来から逃れようとするのは「ずるい」のだ。

 

 計画を頓挫されたケンとチャコは自殺をしようとするのだが、しんのすけが「ずるいぞ」と言うのだ。それがしんのすけがふたりが自殺しようとしたのを予期して言ったのかどうかは定かではないが、このセリフはぐっとくるものがある。

 

 そう。

「ずるい」のだ。

 来たる未来を、まだ見てもいないのに、途中で降りるのはずるいのだ。

 現実がいくら醜くても、生きづらくても、しんどくても、途中で降りることは「ずるい」こと。

 これは自殺願望が強い人にとってはなかなか酷な言葉として響くかもしれないが、まだ未来に希望があるかもしれないのに、というか、しんのすけのように未来に希望を抱いている子どもたちが生きているというのに、大人たちがこの世界を醜いからと忌み嫌って自殺しようとするなんて「ずるい」のだ。

 

 子ども向けアニメに対して、熱量多目に書いてしまった。

 しかし、この映画に関しては「子ども向け」とかもはや関係がない。

 老若男女問わず、大事なテーマが描かれている。

 過去を振り返り感傷に耽るのはいいことかもしれないが、未来から目を背けてはいけない。

 時計の針が止まることはないし、ましてや遡ることなんてないのだから。

 

 

 

多様性、再考

 世間にはマイノリティーに属する人がいる。

 LGBTQ、アセクシャル、吃音症、場面緘黙症発達障害、ひとより繊細な「HSP」、字を書くのが苦手だという「ディスレクシア」、万引きがやめられない「クレプトマニア」

 こういった人たちは世間的に理解されないことが多い。

 吃音症の子に「ちゃんとしゃべれ」とか、場面緘黙症の子に「はっきりと声を出せ」とか、HSPの子に「そんなことくらいで気に病むなよ」とか、ディスレクシアの子に「勉強不足だろ」とか、そういったことを社会は言い続けてきたのだと思う。

 でも、昨今はそういったマイノリティーに存在がクローズアップされて、そういった人たちへの理解が昔よりかは進んだのだと思う。

 しかし、このマイノリティーへの配慮がもたらす問題もある。

 まず、一つはマイノリティーのマジョリティー化。

 私の好きな作家・朝井リョウの『正欲』に以下のようなセリフがある。

 

 多様性って言いながら一つの方向に俺らを導こうとするなよ。自分は偏った考え方の人とは違って色んな立場の人をバランスよく理解してますみたいな顔してるけど、お前はあくまで〝色々理解してます〟に偏ったたった一人の人間なんだよ。

 

 多様性社会が謳われている現在、「多様性=LGBT・多国籍」みたいな等号が成り立ってしまっている。

 いろんな性がある、いろんな人種の人がいる、そういった人たちを理解しましょう。それが多様性社会。……みたいな。

 自分の想像に収まるだけの「多様性」だけを礼賛して、社会の隅っこに隠れているマイノリティーの存在に気がつかないでいる。

 だから、本当の意味での「多様性」とは、そういった日の目に当たらないようなマイノリティーの存在も認めることで初めて成り立つものだと思う。

 

 多様性だ! と安易に主張する人がいるが、彼らはその多様性によって人々を一つの方向に導こうとする。多様性を認めないという人を排斥しようとする。

 多様性を認めると言うことは、そういった多様性を尊重しない人をも受け入れることではないか?

 もっといえば、多様性を認めるということは、巨視的な見方をもつことではないか?

 言うなれば、多様性を認めるということは、物事を客観的にとらえるということではないか?

 そういった考えもあるよね、と受け入れる。

 そういった態度こそ、多様性を認めるにあたって必要なスタンスであると思う。

 昨今の多様性を押し付けるというムーブメントは、真の多様性社会を志向する目的にそぐわないと思う。

 理解しがたいという人もいる。

 そういった人の考え方を捻じ曲げて、自分の思う考え方にさせるのが昨今の「多様性」なら、真の多様性はそういった人の考え方も受け入れる、ということだろう。

 いや、「受け入れる」のがハードル高いなら、「知る」ぐらいでちょうどいいのかもしれない。

 人間、誰しも肌の合わない人がいる。そういった人に対して、わざわざ対峙する必要はない。だから、「多様性を尊重する」ということに関しても、理解しがたい人の考え方を心から理解するわけではなく、理解したがたいが、そういった考え方をする人もいるんだと「知る」ぐらいでいいのだ。きっと。

今村夏子『こちらあみ子』(ネタバレ含む)

 

 映画『花束みたいな恋をした』に出てきたというこの小説。

 その映画は見ていないんだけど、この作品が映画に出てくるとは、どういった映画なんだろう? と思わずにいられないのは、『こちらあみ子』が極めて怖い小説だからである。

 村田沙耶香さんの小説と同じ香りがする。村田さんの『地球星人』を読んだときもなかなかな恐ろしさを感じたが、『こちらあみ子』もそれとは違うベクトルの怖さを感じた。

 

 主人公あみ子は少し風変りの少女。優しい父に、いっしょに登下校してくれる兄、書道教室の先生でお腹には赤ちゃんがいる母、憧れの同級生のり君。

 あみ子はいわゆる発達障害であり、社会に適応できない部類の女の子だ。靴下もはかないし、風呂にも入らないし、字はとても汚いし、漢字は書けないし、流産で死んだ赤ちゃんの墓を木の札でつくって、赤子の死にショックを受けている母に見せようとするし、……そこに彼女の悪意はないからこそ、読んでいてつらいのだ。

 あみ子が少しでも意地悪なところがあれば、私はそこをあげつらって、あみ子を批判できるのだが、残念ながら、あみ子に悪玉は見当たらない。

 仲間外れをされようが、悪口を言われようが、殴られようが、あみ子は純粋なままなのだ。それでもあみ子は泣かない。というか、あみ子は自分が忌避されているとかわかっていないのだ。ただただずっと純粋なのだ。のり君に「殺す」と言われても「好きじゃ」と言い続けるのは傍から見れば異常なのだが、これはあみ子の一途な恋愛の姿なのだ。

 

 この世界で純粋な生き方は許されない。

 だが、あみ子はこの世界を純粋に生きている。

 それが「異常」に見えているのならば、「異常」なのは世界の方なのか、あみ子の方なのか?